神玉遊戯
刻待ちの盃 2






「藍玉、訊いてもいいか」
「はい」
「……初代は…」
 明敏は、ふと庭先に視線を飛ばした。
 この紫家の庭園は、造られた当初から、まったく変わっていないという。自分より前の当主たちも、この庭を眺め、この庭で遊んだのだ。
 もちろん、初代当主である、紫 彰俊も。
「…初代当主の彰俊は、どんな人物だった?」
 紫家史上、もっとも優れた霊力を持ち、人望も厚く、最上の当主と謳われた男は。
 藍玉は、明敏が何を思っているか、なんとなく察しがついた。
 五十七代目となる今代の当主は、まだ少年。未熟な部分など、数え上げれば両手に余るほどある。
 だからこそ当主は―――明敏は、すこしでも完全に近づこうとして『彰俊』を追いかけるのだ。
 藍玉は、一呼吸の間を空けて、静かに話し出した。
「…かの当主は、身も心もとても強い方でした。とても立派な方でした。誰よりもまっすぐに未来を捉え、常に落ち着いた心で、泰然と構えていらっしゃいました。そして、なによりも…」
 藍玉の脳裏に、幾星霜も前の出来事が、鮮明に蘇る。


 妖孤一族を飛び出して、京のすみで脆弱なあやかし達と共に、ひっそりと暮らしていた頃。
 妖怪退治をしにきた術者に祓われそうになって、京の中を逃げ惑っていた、あの時。
 供もつけずに、京の大路を悠々と歩いていたあの人は、自分を見つけて。
『私と一緒に来るといい。…いつまでも一人だと、私以外の術者が、君を悪い妖怪だと勘違いして、祓ってしまうよ』
 だからその前に、一緒に行こうと、言ってくれたのだ。
 ほかのどんな人間の甘言にも靡かなかった藍玉だったが、彰俊の言葉だけは、不思議と信じられた。
 そして彼は、藍玉が紫家に降った後も、決して卑下したりはしなかった。
 彰俊と過ごした日々は、何事にも変えがたい、藍玉の中の数少ない至宝の一つだ。


「……何よりも、お優しくて、誠実な方でした」
 どこかうっとりした様に、藍玉は言葉をつむいだ。あそこまで広くて大きな人を、彼は彰俊以外に知らない。
「…そうか」
 明敏は、静かに頷きながら、南中した月を見上げた。
 紫彰俊は、空にかかるあの月のように、近くに見えて、とても遠い人なのだろう。
 死人には勝てないというとおりに、彼以上の当主は、紫家にはまだ現れていない。
「…悔しいな」
 ぽつり、と呟きがもれる。
「悔しい?」
「ああ…。悔しいんだ、俺は」
 言葉とは裏腹に、明敏の口調は静かだった。彼の視線は、月を捉えたまま動かない。
 明敏が本気で悔しがっているとき、彼は抑揚の無い控えた声で『悔しい』という。
 むやみやたらに、喚いたりはしない。それは、十五歳という年齢からしては、過ぎるほどの大人らしさだった。
「…俺の目標は、最高の主になることだ。まだ子供だったころに、お前と約束した」
 明敏の眼が、不意に藍玉を見た。
 美貌の妖孤はその一瞬、息をすることさえ忘れてしまった。
 …強い、意志を秘めた眼差しだ―――。
 月光のように冴え冴えとして冷たく、静寂の中にありながら、裏には激しく荒ぶる激情を潜ませた眼。
 それは、彰俊が当主の表情を見せたときにする眼差しと、酷似していた。
 あるいは、それ以上のなにかを含んでいるのかもしれない。
 明敏は、藍玉を見つめ、言葉を継いだ。
「まだ、彰俊には及ばない。影さえも踏んでいないかもしれない。…けれど」
「……」
「いつか、影を踏んで、横に並んで、絶対に追い越してやる」
 それは、揺るぎの無い決意。決して屈しない、何よりも高い矜持だ。
 さあさあと、風が木の葉をなでる音が響く。
 呼吸の音さえも、その数瞬掻き消えていた。
 やがて。
「最高の主となったその時は、ちゃんと『当主さま』呼んでほしい」
 不意を突かれて、藍玉は目を瞠った。
 明敏は気づいていたのだ。彼が紫家当主の座に着きながら、藍玉が一度として彼を『当主さま』と呼ばない、その理由に。
 藍玉が明敏を『当主』といった瞬間、それはすなわち、明敏が彰俊を越えたということ。
 幼き日の誓約とも言うべき約束は、二人を強く結び付けている。
 明敏に課せられたものは、歴代の当主の誰よりも高く、超えていくには困難なものだ。しかしそれを越えたとき、明敏は誰もが認める立派な主となっているだろう。
 それを成し遂げると、この少年は言い切った。
 藍玉はしばし明敏の目を見返した後、黙って臣下の礼をとった。
 明敏ならば、可能かもしれない。そんな根拠も無い期待を、この時彼は胸のうちに抱いていた。
「お待ち申し上げております。いつか貴方さまが、己が目標に手を届かせる日まで」
 きっと、その日は来る。
 そして、今でも十分立派な当主である彼を、藍玉は『当主』と呼べる。
 藍玉が顔をあげてから、明敏は唐突に年齢相応の表情に戻る。まだ誰かの庇護を必要とする、少年の表情だ。
「時が来たら、今度は…その…」
 いつもは歯切れのいい口調が、止まりがちになる。
 藍玉は催促するわけでもなく、微笑をしたまま次の言葉を待っていた。
「…晩酌に付き合え」
 やはりそうきたか、というのが藍玉の素直な感想である。
 酒瓶を取り上げてしまったことを、少年らしく気にかけていたのだ。それがどこか可愛らしい。
 十五歳の少年に向かい、『可愛い』などと言ったら、反感を買うこと請け合いだが。
 美貌の妖狐は、ふわりと笑って、躊躇い無く頷いた。
「もちろん、喜んで」

 月明かりは優しくそそぎ、
 静かな夜は、人知れず、更けていく―――。


終幕       
―――2005.4




           
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