神玉遊戯
刻待ちの杯 1





 闇があたりを包み込んだ、初春の夜。
 広い庭の一望できる廊下に、ひとりの少年が、杯を片手に鎮座していた。
 頬に落ちかかるほどの長さの黒髪はつややかで、眠気をはらんだように半分伏せられた目は若干赤みを帯びている。
 顔立ちは、さながら腕のよい人形師が全精力を注ぎ込んで作り上げた大作のごとく、秀麗だ。
 姓を紫、名を明敏。現在十六歳にして、紫一族の宗主の少年である。
 風がそよいで、八分咲きの桜から、花びらがはらはらと舞い落ちた。
 空中に遊ぶ花弁のうちひとつが、何を思ったのか、明敏の手のひらにある杯の中へ降りてくる。
 明敏はそれを見て、つと目を細めた。
 手の中でしばらく杯をもてあそぶ。そうして、桜の花弁が揺れるのを、じっと見つめていた。
 冷たい風が、むき出しの頬を打つ。月明かりは清けき空気を染みとおり、あたりを静かに照らす。
 ぴんと張り詰めた静寂のなか、彼はそっと酒をあおった。ゆっくりと飲下して、深呼吸をすると、胸に焼け付くような熱さがほんの一瞬生じた。
「…っ」
 やりすごしきれず、一度小さく咳き込む。
 その時に、左手側の廊下に、ひとつの気配が現れた。
 なんて間の悪い、と、明敏は内心で―――おもいきり顔に渋面をつくった。
 その気配は明敏の傍にくると、かすかな衣擦れの音をひびかせて、その場に落ち着く。
 明敏は、視線だけをそちらに向けた。
「…もう見つかってしまったか」
 いささか拗ねたように言ってから、空になった杯に酒を満たそうと、酒瓶へ手を伸ばす。しかし酒瓶は、明敏の手にとられるより早く、別の手に攫われてしまった。
 手の主は、小さな酒瓶と明敏を交互に見て、困ったように苦笑した。
「御神酒用の清酒が一瓶無くなっていましたから、もしかしたらと思って、探してみたのですよ」
 ふわりとやさしく微笑む青年―――名を藍玉という。
 一瞬女性と見まごうばかりの美貌の持ち主だが、剣の使いに関しては右に出るものはいないといわれるほどの豪傑である。
 見かけの年こそ二十歳半ばかと思われるが、その実、一六〇〇年の昔から生きている妖狐。はるか昔、紫家初代当主が膝下に降したという、立派な妖怪なのだ。以来藍玉は紫総本家につかえ、今現在も紫総本家、つまりは明敏に従っている。
 明敏は、取り上げられた酒瓶と藍玉を、恨めしげに見上げた。
 酒瓶は、返してもらえそうにない。
 仕方なく彼は、杯を盆の上に戻した。ふちには、まだ桜の花弁が残っている。
「…過保護だ」
「過保護なものですか。十六歳で、お酒はまだ早いといっているのです。今さっき、一杯飲んでむせたでしょう」
「……………」
 明敏は返事に窮して黙り込む。事実がそのとおりなので、何も言い返せなかった。
 この妖孤は頭がいい。何か反論しても、土台がしっかりして筋道の通った言葉でなければ、次に来る一言でものの見事に一蹴される。まさしく、今のように。
 黙ってしまった明敏の横で、藍玉は手にした酒瓶をゆらゆらと揺らした。
 実を言うとこの酒、相当に強いものなのである。明敏は『これでいいか』くらいの気持ちで選んだのだろうが、そんな扱いやすい品ではない。
 神世の折、須佐男命が八俣大蛇を退治する際、これでもかというくらい濃い酒を飲ませ、酔わせて退治したという話がある。
 明敏が今宵持ち出した酒は、その大蛇を酔わせたといわれるものと、ほとんど変わらないようなものだった。
 そんなもの、人間が……しかも子供が飲んだらどうなるか。―――結果は火を見るよりも明らかである。
(…妖孤の私でさえ、手酌で3杯が限界だというのに……)
 藍玉は呆れ半分に、むくれっ面を崩さない明敏の横顔を見やった。
 どうも、普段より赤みが差している。早々に酔いが回り始めたのだろう。
「水を持ってきましょうか。お酒は、また今度に」
「いや…」
 立ち上がろうとする藍玉を、明敏が制する。
「…ここに、いてくれ」
「……承知」
 従者たるもの、主君の言葉に逆らえない。藍玉は、厨まで水差しを取りに行きたい気持ちを抑え、その場に座りなおした。







           
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