不知刻(きざまず)の砂時計と、
       熔けゆく鉄秒針
 5





 手持ち無沙汰となり、何気なく店内を見回すと、いつの間にか客は倉木一人となっていた。
 ジャズ音楽と、マスターのカップを片付ける音。それに、自分の心音と呼吸音だけが、聞こえてきていた。
 何かが、足りない。そう倉木は思った。
 しかし、この場には足りなくて良いものだとも思う。
 こんな、一分一秒を気にする必要のない場所には。
「――…そうか、時計か」
 鉄秒針のついた、一秒ごとを無機質に刻んでいく時計がないのだ。
 あるのは、流れ落ちる砂が、時間の経過していくことだけを知らせる、砂時計だけ。
 どんなふうに過ぎるのかなど、砂時計は知らせない。すべては、自分の感覚なのだ。
 分かった途端、倉木は体から余分な力が抜けていった気がした。
 小説を書こうとする時に限らず、なにか自分のペースにのめり込もうとする時、鉄秒針が刻む音は、いつも鼓膜をちくちくと突き刺して、邪魔をしてくるのだ。
 それが、いまは傍にない。
 自分の時間を計られなくて済むのである。
「はは…、なんだ、それだけのことなのか……」
「どうか、なさいましたか?」
 心まで余分な力が抜けたのだろうか。倉木は、自分の声がいつもより抑揚に富んでいたことに、自身でも驚いた。
 問いかけてくるマスターの声まで、さらに穏やかに聞こえた気がした。
 倉木は「いいや」と、緩慢に頭を振った。
「なぁマスター、あの砂時計、次はいつ動くかな」
「それは、私にも何とも。砂はいつも、変わりなく落ちておりますがね…」
「そうなのかい」
 砂時計がいつ回るのか、正確なところは、きっと誰にもわかるはずがない。
 あの砂時計の砂を量ってみても、落ちる時間をストップウォッチでコンマ何秒まで測ってみても、それは無駄になるだろう。
 最後のカップを片付け終え、マスターが顔をあげる。
 視線が、合った気がした。
「ただひとつ、私から言えますことは――……」



 ―― が…、…こ ん ……





        +++




 真夜中の大都会。摩天楼の足元を、倉木は足取り軽く歩いていた。
 小説をプリントアウトした紙の束と、パソコン入りの鞄は結構な重さだったが、今は気にならない。
 都会の喧騒は相変わらず煩く、人通りも多かったが、夕暮れ時に比べれば遥かにましだった。
 最寄の駅から電車に乗り、家を目指す。
 電車内の窓際に陣取り、倉木は窓の外を流れていく大都会の景色を見つめた。
 大量のネオンで薄められた夜の闇に、黒く浮かび上がる高層ビル群。まだ電気の消えないところもあり、その様子は中々に美しい。
 倉木は目を細めた。
 この大都会の姿を、墓場のようだと言ったのは、一体誰だったか。
 コンクリートとアスファルトと硝子で固められた都市。見上げれば視界いっぱいに広がるはずの空も、そこでは小間切れだ。
 人も街路樹も墓場の上で、死を足元にして生きている。骨壺すら用意されない冷酷な墓場で、刻々と心臓は動いて、その分死に近付いている。
 人工的に計られた一分一秒に急かされるようにして、この大都会は蠢いている。
 今はそれでいい。
 すべてのものは、時間の経過にさらされている。
 墓場もいつか、墓場でなくなる。
 コンクリートもアスファルトも、もとは砂を固めて造り上げたものだ。砂はいつか、砂に戻る。
 終わった命は大地に還り、やがて砂になり、時になる。
 あるいはそうならずとも、誰かの中に残ってゆくだろう。



 家に着き、倉木はメインのパソコンのある仕事部屋に直行した。
 まずは、パソコンの電源を入れ、立ち上がるのを待つ。
 書けそうな予感が、――書けるという確信が胸の中に生まれていた。
 いよいよパソコンデスクの椅子に座ろうという時、倉木の耳に、時計の秒針音が届いた。





           
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