不知刻(きざまず)の砂時計と、
       熔けゆく鉄秒針
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 煉瓦の枠で四方を囲まれた、大人の身長よりも高さのある砂時計が存在した。
 上から下へ零れ落ちていく砂漠色の砂が、その砂時計がただの飾りではなく、きちんと時を計っていることを証明付けていた。
「こんな、大きな砂時計が……一体、どれだけの時間を計っているんだ」
「さあ…。それは私にも、わかりかねます」
 マスターが微苦笑する。
 倉木は砂時計にじっと見入った。そして、不思議なことに気づいた。
 入ってくる時は見落としただけだとすれば、知らなかったのは説明がつく。だが、老婦人が出て行った時間を考えると、上に残っている砂の量が少なすぎる気がする。
 どういうことだろう。
 そう考える間にも、砂はさらさらと下へ落ち続けていく。
「ただ、ひとつ…」
 マスターが言いかけたとき、窓際にいた男が席を立った。
 倉木は反射的に砂時計から目をそらし、男を目で追った。こちらも、先ほどの老婦人と同じように上機嫌そうだ。
「時計が回るね。マスター、俺もそろそろ。いやあ、いい時間だったよ、ありがとう」
「ああ、はい。お気をつけてお帰りくださいませ」

 ―― が…、こん……


「な――…?」
 鈍い音を背後で聞き、倉木は慌てて振り返った。
 砂時計の、ひっくり返った音かと思った。
 しかし期待に反して、砂時計の上の砂がわずかに減り、下の砂がその分増えた、それだけの当たり前の変化しかなかった。
 倉木は再びマスターに訊ねた。
「マスター、今の音は?」
「砂時計が、返ったのですよ」
 そう言うマスターの顔は、ここ数十分で見慣れた、穏やかな微笑を浮かべていた。
「いや、しかし…っ」
 倉木には信じられなかった。
 音はした。
 確かに、そんな音はしたのだ。
 だが、目の前の実物にはそんな変化はなかった。
「この喫茶店に、ほかに砂時計があるのか」
 一番それらしい可能性を当たってみたが、マスターはゆっくりと、首を横に振った。
 ばかな!
 倉木は頭の中でそう叫んだ。
「砂が落ちきる前に、回転する仕組みの砂時計なのか」
「いいえ。きちんと落ちきってから、でございます」
「だが、回転したような動きはなかった」
「それは、お客様のお時間が、まだ経っていないからでございましょう」
「俺の、時間……?」
 ますます分からない。
 倉木は頭を片手で掻き毟った。
 小説がうまく書けない時の、出口もなく、ただループする暗闇トンネルにはいったような感覚だった。
「お客様、珈琲を淹れなおしましょうか」
「……あ、…」
 そういえば、まだ飲み終えていなかった。
 倉木はテーブルの上に視線を戻すが、そこにあったのは人肌に温んだ珈琲だった。
「……構わない。このままで、大丈夫だ」
「左様でございますか」
 残念なことをしてしまったが、ミルクと砂糖を多めに加えれば、顔をしかめるほど苦い思いはせずに済む。
 それに、冷めてしまっても、ここの珈琲が美味いことにかわりはない。
 吐きたいため息を堪え、倉木は甘くした珈琲を飲み込んだ。
 まだ砂時計のことが頭から離れず、気もそぞろだったが、とりあえずパソコン画面に向き合い、キーボードに手を添える。
 だが、数度キーをたたいただけで、倉木は執筆を止めてしまった。
 キーを叩いたときの機械くさい音と、この喫茶店の雰囲気が、あまりにも不釣合いだったからである。
 絶対音感のある人間の中には、すべての音が音楽となって聞こえる者がいるという。ある音とある音が不協和音だった時、そういう人間は可能であるならば、音の片方を、あるいは両方を止めさせるらしい。
 倉木自身は絶対音感を持たないが、それはきっと今のような感覚だろうと、なんとなく考えていた。
 パソコンの電源を落とし、鞄の中にしまう。テーブルの上には、冷めた珈琲だけとなってしまった。





           
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