不知刻(きざまず)の砂時計と、
       熔けゆく鉄秒針
 3





 小さな窓からは、入り口と同じ黄橙色の明かりが、店内を満たしているのがわかった。
 取っ手を引く。からんからんと、ベルが鳴る。
 控えめに耳にしみこんでくる、ジャズ音楽。
 扉の内側は、珈琲の香りの漂う、セピアの世界だった。
 都会の喧騒が消えた。
 倉木は思わず立ち止まってしまった。違う世界に入り込んだような気がした。
「いらっしゃいませ……おや、初めての方ですね」
濃厚な珈琲の香りとともに、落ち着きのある声が聞こえた。
 カウンターの内側で、五十がらみの男性が微笑んでいる。紳士という言葉の似合う彼は、この喫茶店のマスターだった。
 マスターは珈琲豆を合わせ、挽いている最中である。濃厚な香りは、このためだ。
 倉木はようやく一歩を動かすことができた。店内はさほど広くはない。カウンター席とテーブル席とがあったが、全部をあわせても二十席と少し余るほどだ。
 先にいた数人の客は、珈琲か紅茶を手元にして、喫茶店でのひと時を静かに楽しんでいる。時々聞こえる話し声も、囁きのようだった。
「どうぞ、お好きな席へ」
「はい…」
 少し迷った後、倉木は、窓から最も遠い、一人がけ用の小さなテーブルに着いた。
 隅であるために、他の席よりもほんの少し影が濃く、それがゆるりと包み込んでくるようだった。
 少しして落ち着いたころ、マスターが注文を取りに来てくれた。
「何に致しましょう」
「珈琲を、ブレンドで」
 メニュー表を見ないまま、倉木は答えた。
 マスターは「かしこまりました」と、微笑を深くした。
 すぐに、豆を挽いたときの香りが強くなりはじめた。
 珈琲を待ちながら、倉木は鞄の中からパソコンを取り出し、電源を入れた。黒かった画面が青い起動画面へ移り変わる。あとは起動し終わるまで、椅子の背もたれに寄りかかり、ぼんやりとしていた。
 天井が目に入る。セピア色の視界のなか、黄橙の明かりが揺らめくさまは、美しかった。ジャズ音楽も、それを引き立てている。
 心地好い。
 微量の電子音が聞こえ、パソコンがスタンバイの完了を知らせた。
 原稿を書かなければならないのは分かっている。しかし、書くべきことがうまく形にならない。文章として、物語として、生まれ出てきてくれない。
 自分は焦るのだろうと思ったが、案外落ち着いていた。
 諦めとは、また違う。明け方まで、自宅で原稿と向き合っていた時の、妙な虚脱感でもなかった。
 心地の好い、停滞の時間だ。
「お待たせ致しました」
「……ああ、どうも」
「では、ごゆっくり」
 運ばれてきた珈琲に、倉木は早速口をつけた。
 苦いが、ほのかに酸い。鼻に抜ける香りは強いが、しつこすぎない。今まで飲んだどの珈琲よりも、自分の好みに合っていると思った。
 店に入る前の沈鬱な気分は、この珈琲で薄らいでいた。
 パソコンを目の前にしながら、倉木はまだ書き始められなかった。
 だが、進めなければならないという焦りばかりが押し寄せて、実際は一向に進んでくれない時とは、今の「書けない」は違っているような気がした。

――が、こん…。

 誰かが、席を立つような音がした。
「マスター、そろそろお暇させていただくわ。時計も回ったものね、丁度いいわ。また、そのうち来ます」
「ええ、お待ちしていますよ」
 倉木が店の出入り口のほうに目を向けると、ふくよかな老婦人が鼻歌を歌いながら、上機嫌な様子で出て行くのが見えた。
 マスターも穏やかな笑顔で、老婦人を見送っていた。
 扉が閉まり、からんからんとベルが鳴る。
 倉木は、珈琲をまた一口飲んだ。先ほどより、少しばかり冷めて、感じる苦味が強くなっている。砂糖かざらめか一瞬考え、小匙の先ほどの量のざらめを珈琲に溶かした。
 それを一口飲んでから、倉木はふと、マスターと老婦人の会話を思い返した。
 老婦人が、「時計も回った」と言った。
 倉木は急に、今が何時か気になりだした。店内を見回してみたが、時計は見つけられない。
「なぁ、マスター。時計は、どこにあるんだ?」
 パソコン画面の隅にも時刻は表示されていたが、倉木の思考にそれを確認すればいいという思いつきは閃かなかった。
 マスターは、カップを拭いている手元から顔を上げ、店に入ってすぐの所へ視線を向けた。
「あちらですよ」
「あちら…って……」
 倉木はマスターの視線の先を追ったきり、思わず言葉を失った。






           
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