不知刻(きざまず)の砂時計と、
       熔けゆく鉄秒針
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「うーん、やはりどうにも振るいませんねぇ。倉木先生」
「……そうですか?」
 書きかけの原稿を読み終えた編集者の浅岡に、男――倉木啓吾は、とぼけた声で返事をした。
 明け方に眠り、目が覚めた時には午後の二時を過ぎていた。起き抜けに、未読メールを確認すると、やはり浅岡からだった。今日か 明日に、現時点で仕上がっている原稿を見せてもらいたいのだという。
 倉木は、小説のデータとプリントアウトしたものと、小型の携帯用パソコンを持って出版社に出向いた。そのまま原稿確認に入り、今に至る。
 浅岡が紙の束をぺらぺらとめくりながら、難しい顔をしている。一言ふた言物申したいときの素振りだと、倉木は思った。
 おもむろに、浅岡の視線が上向いて倉木を見据えた。
「倉木先生は、流れるような文体と、登場人物の繊細な心の変化をリアルに描きこめることが特徴ですがね、……これはそれがありません。ストーリーの組み方は出来ていますが、各場面があっさりしすぎて、全然響きあいもしていない」
「はぁ……。と、いうと?」
「既存の物語を、上からなぞっただけのような……。壁の一枚向こう側の出来事みたいで、ちっとも近づいてこないんですよ」
「壁一枚、向こうですか」
「ええ」
 倉木は無意識に顎に手をやった。のびかけた髭の、ざらりとした感触が指の腹を通り過ぎる。
 筆が振るわないことは実感していたが、原稿に対し手を抜いているつもりはない。倉木自身は、それなりに体裁が整っているように思っていた。
 しかし、十年来彼の担当編集者を勤めている浅岡に言わせると、小説家・倉木啓吾は、ここのところどうにも不調のようだった。
「どうしたんですか先生。こんなこと、今まで一度もなかったのに」
 どうしたといわれても、思い当たる節は何もなかった。リズムがつかめないとしか、言いようがない。倉木は言葉にすらならない声を、のどの奥で転がすしかなかった。
「……まぁ、デビューから十年間、まったくスランプがないというのも珍しいですからね。ようやくか、という気もしますが」 「スランプ……ねぇ」
 だが、それを理由に手を止めている時間はない。
 締め切りは二週間後。原稿用紙五百枚といわれているところを、まだ百にも満ちていない。話の内容もまだ序盤、舞台も完全には形成しきれていなかった。
「倉木先生、とりあえず、もう少し進めてみてください。何か突破口があって、書けるようになるかもしれません。……ですが、もしこのまま不調が続くようなら……」
 浅岡が言葉を濁す。
「……また、来ます」
 倉木はその先を何となく察して、彼が言わなければならない前にと、椅子から腰を上げた。


       +++


 出版社を出た後、倉木はすぐに帰ることなく、大都会の喧噪の中をぶらついた。今家に帰っても、続きも何も書けそうになかった。
 夕暮れ時は、帰宅するサラリーマンと夜遊びに来た若者とが、丁度混じり合い行きかう時間。人通りが多く、路地一本通るのにも流れに逆らうと一苦労だ。
 倉木は人の流れに合わせながら、ぼんやりと歩いた。肩にかけた黒い鞄が、紙の重みでずんと圧し掛かってくる。足運びも心なしか、普段より重たかった。

 ――各界から絶賛の嵐! 大型の新人、鮮烈デビュー!

 十年前、国内有数の文学賞で大賞を取り、倉木は華々しく文壇へ上がった。
 あの時は誇らしかったそのフレーズだが、現在は重荷以外の何者でもない。
 ヒットしたのは、デビュー作とそのシリーズにあたる三冊だけで、あとは地上すれすれの低空飛行だ。今の状況では、何の価値も見出せない。
 小説家は、書けなければ意味がない。
 書けない今の自分に、価値はあるのか。
 答えは誰に聞かずとも明確だった。金の卵を産まないのに、わざわざ飼ってやるほど優しい飼い主は、この業界には居ない。
 ふと立ち止まり、上を振り仰ぐ。
 高層ビルが、逃がすまいと取り囲むように、空に向っていくつも突き立っていた。
 この大都会の姿を、墓場のようだと言ったのは、一体誰だったか。
 コンクリートとアスファルトと硝子で固められた都市。ビルは鉄格子のようにも見える。街路樹は整然と植えこまれ、野生の奔放さはない。視界いっぱいに広がるはずの空も、ここでは小間切れだった。
 人々は倉木をよけながら、あるいはぶつかりながら、足早に流れていく。立ち止まっている男を、ただのモノとしてしか認識していないように、皆無関心だった。
 倉木は顔を苦々しく歪めた。陰性の笑いがこみあげ、一瞬喉を突いた。
 ――なるほど、墓場とは言い当て妙だ。ならば、人も街路樹も墓場の上で、死を足元にして生きているというのか。骨壺すら用意されない冷酷な墓場で、刻々と心臓は動いて、その分死に近付こうというのか。
 倉木は、まっぴら御免だと思うより、はからずも納得している自分に気付いた。
 同時に、馬鹿馬鹿しくなった。
 再び歩きだそうと、視線を下向けかけ――大通りを挟んだ向こう側に、彼はその喫茶店を見つけた。
 アンティーク調の外装をした、小さな喫茶店だ。入り口を照らす灯りは黄橙色で、街灯や蛍光灯の白く刺さる光に比べると、とても温かそうだった。小さなプランタには、もうすぐ咲きそうな花がある。
 小ぢんまりとしたそれは、ビルに挟まれているせいか、逆に目立っていた。
 久々に、こういう場所で過ごすのもいいかもしれない。
 ペットボトルやインスタントの飲み物にも飽きが来ていたところだ。
 倉木は、人の流れを横切り、スクランブル交差点を渡った。
 少し歩けば、喫茶店は目の前だった。





           
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