不知刻の砂時計と、
熔けゆく鉄秒針
生活感の薄い部屋の中、パソコンデスクの周りだけが妙に人くさい。
男はデスクの前に陣取ったきり、そこに埋め込まれてでもいるように、中々動かず、じっとパソコン画面を睨んでいた。
ワードが起動されている画面は、ここ数時間、ほとんど白紙の状態が続いていた。
否。正確に言うならば、わずかな量の文章が、現われては消えるという動作を繰り返していた。
ヘッドホンからは、微量の音楽が流れ続けている。
無機質に刻まれる時計の秒針音が、音楽のリズムを強引に突き破って耳の奥を刺してきていた。
――秒針音を消すために、音楽をかけているというのに。
『その時私は、わが目を疑った。そこにあったものは、いくつもの……』
……Delete、Delete、Delete、
『その時私は、わ……』
……Delete。
どれほどの時間が過ぎたか。
キーボードに乗せられていた男の手が、ついに諦めたのか、デスクの下へとずり落ちた。
座椅子に体重を預け、顔を上向ける。その拍子に、ヘッドホンが耳から外れる。
同時に、秒針音がやたらと大きく聞こえ始めた。
「ああ、やだね……。時間まで俺を追いたてやがる」
男は苦笑し、肺の奥で重く凝っていた空気を吐き出す。
気だるげにマウスを操作して、書きかけの文章を保存し、パソコンの電源を落とす。
それから、キーボードのすぐ横に置いていた携帯電話を手に取り、一夜ぶりに電源を入れた。
小さな画面が明るくなる。表示された時刻は、午前五時三十二分。
男が窓のほうを向くと、夜明け近くの空の明るさが、カーテン越しにも確認できた。
――道理で、カラスが煩くなり始めたわけだ。
携帯電話をパソコンの隣に戻す。伸ばした腕がきしんだ。
「……昼まで、寝るかな」
長時間のデスクワークで硬くなった体を、意識に引きずらせ、男はようやく立ち上がった。
電源を落としていた分のメールを受信し、携帯電話が震えたが、彼は構わず寝室に向かった。
原稿進行状態を確認するための、編集者からのメールだろう。
「俺なんかに催促したって、意味ないだろうによ」
どうせ、たいして売れやしないのだから。
寝室に入り、寝巻きに着替えもせず、ベッドに倒れこむ。
寝息を立て始めるまでに、そう時間はかからなかった。