記憶の花3
記憶の花
―少女の話―3
何の区別もない混沌の虚無に、全身が慄く。
視線を戻しかけ、少女はあっと声をあげた。
青年の胸元に、白い花が咲いていたのだ。青年自身が白いので、そこに溶け込んでいて、花が今までわからなかった。
それは、ちょうど心臓の上のあたり。
少女はそれに手を伸ばした。指先が、薄い花弁に触れ、茎をちぎり、花を小籠のなかへ誘う。
どくん。
鼓動が響いた。同時に、熱が身体を満たした。
少女は、確信を持って、青年を見上げた。
彼は、やわらかく、笑っていた。
「よく、わかったね。――さあ、扉を開けよう。此岸にもどり、君はもう一度生きるんだ」
重い音をたてて、扉が開いていく。光が溢れる。向こうの世界からの眩しい閃光が、空間を突き抜けた。
「いきなさい。扉をくぐって、生の世界へ。君の身体のある場所へ。――もう、ここへ来るような目には、寿命が尽きるまで、遭う事のないように、ね」
「番人さんっ」
その呼びかけは、声として出なかった。
少女は再び、体が宙に投げ出されたように不安定な感覚にさらされた。向こうの世界に戻るんだ、と思った。
まっしろな光の世界に、吸い込まれた。
◇
覚醒する。白い天井が目に入った。充満する薬品の匂い。
少女は、のろのろと目線を動かした。
身体はベッドに横たえられ、包帯が所々巻かれている。とくに左足がひどい状態で、骨折もしている。
不思議な気分だった。大怪我をしているなら左足だとはじめから知っていたかのように、骨折という事実には大した衝撃は受けなかった。
病院なんだ、と気づく。ベッドの横で、両親と、助けた子供が泣き笑いして、その後ろに医師と看護士がいた。
「ユウカ、よかった!三日間も意識が戻らなかったのよ。本当に、本当に、よかった」
縋りつき、泣く母。母の背中を撫でようとして、少女は片掌をひらいた。
(――え?)
手の中から、ぽろりと何かが零れ落ちる。白い、小さな花だ。自分が、最後に掴んだ、あの花。
頭の中によみがえる、花の名前と、そのメッセージ。
ユウカ――生命の鼓動――
自分の名を持つ、花。
ユウカの目から、涙がこぼれた。
この花を手にする事が出来なければ、己は彼岸へ渡っていたのかと思うと、恐ろしい。
なにより、あの体験が夢ではなかったと、花が証明してくれる。
ユウカは、花を拾い上げ、そっと胸に抱いた。
目を閉じ、耳を澄ます。
心臓の音が聞こえた。
(…番人さん。ありがとう)
どういたしまして、と声が聞こえた気がした。
ユウカは、花を見て、ふと笑った。
「……お母さん。この花、生けておいて。私から見えるところに」
――――終――
背景画像写真:Photo by (c)Tomo.Yun
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