記憶の花2-1
記憶の花
―番人の話―
「さて、何年僕は『狭界』にいるだろうか。
あまりに長い年月を経たから、途中で忘れてしまった。
おそらく、誰に聞いても正確な年数なんてわからない。
それでも、かまわないさ。
何年と知ったところで、何が変わるわけでもない。
変えたいとも思わないしね。
――さあ、今日も迷い人が来たようだ。
導こう。生か、死か。
それが僕の役目だから…」
◇◇◇
四方八方から、花畑を無彩色が飲み込んでいく。
無彩色は、死そのもの。あれに飲み込まれたら、死ぬしか道はなくなる。
狭界の番人は、此岸へ続く扉の前に立って、消え行く世界を見下ろしていた。
空中にある扉から、下の花畑までは、階段がただひとすじ通っている。狭界に迷い込んだ人間は、死に捕まる前に、花畑の中から己の欠片となる花だけを集め、階段を上り、番人からの最後の審査を越えれば、此岸へと戻ることができる。
狭界にいる間、人は、いわば臨死体験をしている状態になるのだ。
今、ひとりの中年男性が、花畑の中でさまよっていた。必要な花だけを摘み取ることに、大分手間取っている。手にした籠に、花は数種しか入っていない。
番人は、一度男を見て、それからあたりを広く見回した。
無彩色が、かなりひろがってきている。
この男は、もう間に合わないだろうと、番人は思った。
憐憫はない。同情もない。
ただ、生きられるか死ぬしかないか、それを見極めるのが番人だった。
「うわ、ああぁぁっ」
恐怖一色の叫び声が、階段の下から聞こえた。
番人は無表情のまま、男を見た。
男の足に、死が絡み付いている。
なんとか階段まで逃げようと試みていたが、花を摘み終わっていないのだから、どう逃げようと結果は同じだ。
男が、今にも狂いだしそうなほど悲壮な表情で、階段を這い上がってくる。ようやくてっぺんの踊り場まで行き着くと、男は番人に縋り付いた。
男の摘んだ花は籠ごと置き去りにされ、すでに死にとり込まれている。花を摘み終えることが、唯一生きることにつながるのだということを忘れてしまっている。
「た…、助けてくれ。俺は、死にたくないぃっ」
片足にしがみついている男。番人は、振り払わなかった。
振り払う行為以上に冷酷に、彼は宣言する。
「駄目だよ。君は花を摘み終えられなかった」
「た、頼む!まだ、まだ死にたくないっ」
「…駄目。君は、彼岸へわたるしかないんだよ」
瞬間、男の足場が崩れた。
落ちきる寸前、番人の足首を手で掴む。執念深く、男は生に縋ろうとしていた。
番人の体は、細身にもかかわらず、揺らぎはしなかった。彼は、彼岸と此岸、生と死のはざまに在る者。どちらの世界にも、引き寄せられることはない。
「…逝って」
男の手が実体を失い、番人の足首をすり抜けた。
絶望の叫びが、無彩色に覆われた世界に響く。それは余韻を引くことなく、唐突に途切れた。
番人は、何もなくなってしまったところに、足を踏み出した。崩れたはずの踊り場が、そこから修復されてゆく。
背景画像写真:Photo by (c)Tomo.Yun
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