記憶の花2-2

記憶の花
 ―番人の話―2






 しかし、それだけだった。階段も、多種多様な花の咲き乱れる大地も、青い空も、元には戻らない。
 それらを必要としているものが、狭界にいないためだ。
 番人は、踊り場に座り込み、閉ざされた此岸への扉に寄りかかった。
 無心の裁定官であるはずの番人。しかし何となく、男の叫び声が――生きたいと思いながらも死んでいった者たちの声が、彼の心の重くする。
 罪悪感などというものではない。虚無が、心の中にあるような感じだった。まるで、この世界そのもののような、虚無が。
 目を閉じる。視界が暗くなるだけだった。
 小さく静かに、歌を紡ぎだす。
 意味すらも忘れてしまった歌。それほど遠い昔に覚えた歌。誰が教えてくれたかも、どこで歌っていたのかも、何もわからない。それでも、歌う歌。
 これは、鎮魂歌なのか、生きることへの賛美歌なのか、絶望の葬送歌なのか。

「青い花咲く緑の原

  朱い光差す茜の空

   白い風は透明な心をなで

    玄い雲から涙が落ちる

 手を伸ばした先 消える幻

   呼びかけた彼方 遠ざかる夢

    過ぎ行く時の中で 移ろう景色

  巡り廻る命の営み

    闇のしじまにたゆたい揺れる」

 鉛色の世界で、ただひとりで、番人は歌う。
 誰も聴く者の無い歌を、繰り返し、繰り返し。
 歌っているときだけは、心の奥に沈んでいる虚無の存在を、忘れられるような気がした。
 
 どれほど時が過ぎたか。朝も昼も夜もない狭界では、時を図ることはかなわない。
 番人は歌をやめて、遠くを見た。

 ひゅうひゅうと、死せる者を嘆くように、風が啼きながら吹き抜ける。
 本来、狭界に風は吹かない。吹くための空も、空を照らす光も、光の注ぐ大地もない。
 番人は立ち上がった。踊り場の端に移動する。
 はるか彼方に、地平線ができている。大地が生まれ、青空が広がってきていた。水が流れ始め、緑が茂りだす。
 鮮やかな世界が回復し、無彩色が消えていく。花が一斉に開花し、地を彩った。
 番人の立つところから、地上へ、長くうねった階段があらわれた。
 番人は、その階段を、一段ずつゆっくりと降り始めた。
「…迷い人が、来たようだ」
 無の世界である狭界が、大地と空をもつ世界に変貌する瞬間。
 それは、此岸からの迷い人が来たときのみだ。
 迷い人を此岸に還すために、無が有に変わる。それは、長くはもたない。死が、再び押し寄せてくるまでの短い時間、かりそめに与えられた天地だからだ。

 さわやかな風が草花を撫で、原を渡り、ざあざあと音を立てた。
 その風の去った後、そこに、一人の少女が佇んでいた。
「これはまた、随分と若い人間が来たね」
 番人はつぶやき、少女のそばへ寄っていく。
 ここまで年若いとなると、なんとか此岸へ戻ってもらいたい。天寿をまっとうできるなら、少女は、あと数十年生きられる。
 悠久の時を越えてきた番人にしてみれば、人の一生は短いものだ。だが彼は、その時間を軽いとは思っていなかった。
 生へ還れるならば、還って欲しい。

「ようこそ。狭界へ」

 声をかけると、少女が驚いて振り返った。
「誰よ、あんた」
「僕は、この狭界の番人。ここに来た人を、導く役目を負う者だよ」
「…導く?」
「そう、導く。迷い人が、決めた方向へ。あるいは、そうならざるをえない方向へ。
 ――君にも、決めてもらうよ。此岸へ戻るか、彼岸へ渡るか。つまり、生きるか死ぬか。さて、どうしたい?」
 


 



           
――――終――
2005.9



 背景画像写真:Photo by (c)Tomo.Yun
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