記憶の花1
記憶の花
―少女の話―
「天国とか、霊魂とか、神様とか、そういったものの類は信じていなかった。
でも。
それを覆された。
…私は、
生れて初めて、
『臨死体験』ってやつをしたんだ」
◇◇◇
日が沈んで、あたりは薄暗い。
夕方五時を知らせるチャイムが、半端な夕暮の空に響く。
児童公園の入り口に、家に帰る子供たちの姿が、ちらほらと見られる。
なんて事のない、日常。
スポーツバッグを背負った少女は、帰り道、児童公園の前にさしかかった。
車のエンジンの音が聞こえた。視線を向ける。
そのとき、赤いゴムボールが視界を掠めた。
続いて飛び出した、小さな人影。
少女は、反射的に走り出して、人影を追いかけた。
いけない、道路に出ては!
人影の手を掴み、自分の胸に引き寄せる。
甲高いブレーキ音。一瞬の衝撃。鋭い痛み。
ざわめきが聞こえた。
ぼやけた視界の端に、うろたえる男の姿が映る。
少女の腕の中で、子供がなきながら、舌足らずな発音で『おねえちゃん、おねえちゃん』と呼びかけていた。
ああ、この子無事だったんだ。
少女の目の前が、真っ暗になった。
もう日が暮れたのか。親に怒られるな、と思った。
誰かが叫んでいた。
だが、それは言葉として聴き取る事はできなかった。
痛みが、消えていく。何も感じなくなる。
不意に、身体が宙に投げ出されたように不安定な感覚に陥った。
えっ、と声をもらした時、世界が真っ白になった。
◇
「なに? …ここ」
一面の花畑に、少女はそれだけ言った。水の流れる音も聞こえる。遥か遠くに、一筋の階段と、大きな扉が見えた。
見覚えのない場所だった。地平線が見えるほど、広大な花の大地。彩りは鮮やかながら、どこか空虚だ。
「ようこそ。狭界へ」
少女が驚いて上を向くと、純白の衣装を着た銀髪銀目の青年が、微笑みながら浮遊していた。美しい男だが、この色鮮やかな中では、彼の色彩は浮きたっている。白すぎるそれは、彼をいっそう現実離れした存在にみせた。
少女は慌てて男から離れた。
青年は気分を害したふうもなく、なおも笑っていた。
「誰よ、あんた」
「僕は、この狭界の番人。ここに来た人を、導く役目を負う者だよ」
「…導く?」
青年は頷く。色のない唇が、さらに笑みを深くした。
「そう、導く。迷い人が、決めた方向へ。あるいは、そうならざるをえない方向へ。――君にも、決めてもらうよ。此岸へ戻るか、彼岸へ渡るか。つまり、生きるか死ぬか。さて、どうしたい?」
少女は、愕然として青年の言葉を聴いていた。難しい事を言われているわけでもないのに、はじめ、理解が出来なかった。
さっき、車の迫る道路に飛び出した子供を庇って、自分が代わりに車にはねられたのだ。気づいたら、ここにいた。
花畑。
小川。
生死の選択。
「これって、臨死体験ってやつ?」
半信半疑で訊ねると、青年はあっさり肯定する。
「君の世界では、そう言うんだね。……そうだよ。今の状態なら、生死の選択ができる。…後ろを見て御覧。空の色も、大地も、何もかもが灰色に変わって、崩れていくでしょ?あれが『死』。あれに包まれたら、君は彼岸に行くしかなくなる。逃れたければ、向こうに見える階段を昇って、その上の扉を開く。扉の向こうは、此岸だ。…もう一度訊くよ。どうしたい?」
少女は、きっぱりと答えた。
「決まってるよ。私は、死にたくない。やりたい事がある。叶えたい夢がある。大好きな人たちと、離れたくない。だから、死にたくない」
「――了解。では、僕はその手助けとなろう。…生きる術を、教えてあげるよ」
青年は少女の手を取り、掌を軽く撫でた。蔓でできた小さな籠が、彼女の掌にあらわれる。
不思議そうな顔をしている少女の両手に、青年は、その籠をしっかり握らせた。
「この原のなかに、君の欠片が花となって咲いているものがある。君はそれを残らず摘むんだ。そうしたら、あの階段を昇っておいで。僕が門を開けてあげるから。……花を摘む手伝いは出来ない。僕は門の前で待っているからね」
ふわりと浮いて、青年は扉のほうへ飛んでゆく。長い衣が翻り、白い翼がはためいているようだった。
扉の前に降りた青年が、少女へ向かって叫んだ。
「時間はあまり無い。…死が君を包み込む前に、さあ急いで!」
背景画像写真:Photo by (c)Tomo.Yun
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