幻想国史奇譚(げんそうこくしきたん) ―夢風の彼方―



 ざぁざぁと、風が啼く。
 鶯璃飄(おう りひょう)は築きあがったばかりの塞上に立ち、ゆるやかな丘陵地が延々と続く大地を見渡した。
 一番遠方は薄青く霞み、空との境界が曖昧として、果てというものを感じさせない。
 終わりなどない。
 何処までも、駆けていける。
 そんな幻想のような思いが、胸の中に飛来していたことに気づき、思わず苦笑した。
 ――終焉があることなど、分かりきっているというのに。

「…、……っ!」

 突然、息が詰まった。胸が不自然な拍動を響かせ、全身から熱が引くような感覚に襲われる。
 力が抜けていき、壁伝いに座り込んでしまう。視界がゆれ、ぼやけた。
 璃飄は懸命に、呼吸を整えようとした。 乱れた中でも、必死に息を吸い、吐く。
 やがて心臓も呼吸も、平常に戻っていった。
 冷たい汗が背中に滲むのを、璃飄は感じた。
 これが、初めてではないのだ。発作は繰り返す度、鎮まり難くなってきている。
 自分はもう長くはもつまいと、考えたくなくても、自覚させられた。
 だが、ここで心挫けるわけにはいかない。
 璃飄は深呼吸をして、立ち上がった。
 風が、肩につくほどの髪の先を滑っていく。

「――ああ、璃飄。やはりここにいたか。お前はいつも、風の通るところにいるからな……」

 聞きなれた男の声が、背後から聞こえた。
 璃飄は、くずおれたところを見られはしなかったかと考えた。
 しかしそうであるならば、彼は血相を変えて駆け寄ってくるだろうと思い直し、そのまま微動だにしなかった。
 振り返らずにいると、足音が段々と近づき、やがて璃飄よりも頭ひとつ高い影が、隣に立った。
「燕寿(えんじゅ)、宴席を抜けてきて大丈夫なのか?  爽牙(そうが)のやつが拗ねるぞ」
 そう言うと、李燕寿(り えんじゅ)は軽く肩をすくめる。
「酒肴にひとつも口をつけずに抜けたお前には、ちょっと言われたくない台詞だな」
「……」
 璃飄は何も答えずに、丘陵の果てを見つめる。
 その時、目の前に、瑠璃杯が差し出された。
 反射的に受け取ってしまうと、横から酒をなみなみと注がれる。僅かにこぼれた酒が、杯を持つ手を濡らした。
「燕寿っ」
 非難がましく、璃飄は睨みつける。
 しかし隣の男は堪えた様子もなく笑うと、自分にも酒を注ぎ、先に杯を傾けた。
「少しは飲め。兵糧庫にあった中で、一番上等な酒なんだ。……まさか、十八にもなって飲めないのか?」
「……飲める」
 してやられた悔しさを噛み潰しつつ、璃飄はほんの少し、酒を含む。
 口が、味を感じるより先に熱くなる。強い酒だった。
 深く息を吸うと、熱が肺の辺りまでをも侵してくる。
 璃飄はその熱にうかされたように、茫洋とした大地を、もう一度見はるかした。

 今からおよそ百二十年前、この零河(れいが)大陸を支配していた王朝が倒れ、世は各地に群雄が割拠する戦乱の時代となった。
 大陸はいくつもの国々に分かれ、各国は相攻伐し、分裂、併呑を繰り返し、興っては消えていった。
 そして、戦乱も最末期の今、二つの勢力が、大陸を東西に二分している。
 西に、軍神と渾名されるほど戦に才長けた王が支配し、強大な軍事力を誇る、瑚国(ごこく)。
 東に、ここ十年で急速に成長し、その戦ぶり獅子の如くと評される碧爽牙(へき そうが)が率いる、凰国(おうこく)。
 璃飄と燕寿は、この国の軍師であり将軍でもあった。
 凰国が瑚国を打ち破れば、零河大陸は再び統一され、新たな王朝が立ち上がることになる。
 この果ての見えない大地が、手に入るのだ。

「何を考え込んでいるんだ」
 璃飄は視線だけを動かし、燕寿を見上げた。冷静さと思慮深さをたたえる燕寿の整った面が、酒のせいで僅かに赤みを帯びていた。
「これからの、ことさ」
 切り返すと、燕寿の顔つきが心持引き締まる。野望が、彼の目の奥で咆哮したように、璃飄には見えた。
「――璃飄、お前には何度となく助けられてきた。
 俺の軍略の粗を見つけ、さらに完璧な布陣に仕上げたり、そう思えば、作戦全否定してまったく新しい策を奏上してきたり、戦で不利な状況になってもあっさり逆転させたり。実際それで、お前の策が外れたことはない。凰国がここまで急速に大きくなれたのも、お前の才があってこそだ」
 だが、と燕寿は話を継ぐ。
「どうしてその策をとるのかと訊いても、お前はただ、勝ちたければ行けという。
 ……お前の策は、俺たちにわかるはずのない先の事を見透かして、爽牙が勝つための布石を、先回りして知らせているようだ。まるで、神のような所業に見える」
 燕寿の言葉を聞きながら、璃飄は再び、丘陵の果てに視線を移した。今まで言わずにいたものが、自分たちだけであったことと、酒が手伝い、思わず零してしまったのだろう。
 璃飄は手にした酒を、一口あおった。熱が喉を通り過ぎる。
「私はただ、風を感じているだけだ。良い風なら流れを掴む。悪い風なら、避けて通る。向かってくる風なら、立ち向かい、切り開く。そうだろう?」
 あまりにも抽象的な言い方に、燕寿は頷き返せなかった。
 彼の思う軍略は、あらゆることを計算し尽くし考え抜き、最良と思われる方法を採択し、組み上げていくものだ。
 璃飄の言う「感じる」という感覚的なものが、彼の中で軍略と上手く結びついていかなかった。
「璃飄の考えている事は、よくわからない。だが、お前が優れた軍師であることはわかる。……お前がいれば、たとえ俺が戦で死んでも、凰国は安泰だな。神が風を読み国を導くなら――」
「燕寿」
 いつもより饒舌な燕寿を、璃飄は鋭く名を呼び、差し止めた。
「死ぬなどと、軽々しく言うな。お前がいなくなれば、凰国は成り立たない。何より、爽牙が悲しむ」
「それは、お前の方だ。爽牙はお前を信頼している」
「私では、それに応えきれない」
 言いきって、璃飄は酒を飲み干す。
 風が、全身に触れてくる。
 深呼吸をして、酒におぼれかけた肺の空気を入れ替えると、頭の中が冴えたような気がした。




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