幻想国史奇譚(げんそうこくしきたん) ―夢風の彼方― 2




 二十年近く安定した時代の続く瑚国と違い、凰国は三年前に今の領土まで広がったばかりだ。国の端々では未だ小さな混乱は続く。
 多少癒えたとはいえ、国拡大のための連戦で失った兵と兵糧は、充分に回復したとは言える状態ではなかった。
 そう遠くない日、瑚国との、大陸の覇権を争う戦が始まる。
 向こうは、玉座に悠然と構える獣王。こちらは、手負いの獅子だ。
 ――かつてない、厳しい戦になることは、誰の目にも明らかだった。
 それでも、怯み、逃げだすわけにはいかない。

「燕寿。お前は私に、神のような所業だと言ったな」
 燕寿は黙って頷いた。
塞の奥から、将兵達の宴席を楽しむ声が、かすかに届く。国王である爽牙も、あの中に混じって笑っていることだろう。
 璃飄は目を細めた。
「……国を造るのは、神の意思」
 王朝は滅び、多くの国々が興り、また、消えた。興すのも、滅ぶのも、すべては神の戯れのように、何度も行われる。
 しかし。
「国を守るのは、人の意志と力と、願いだ」
 人が平和で豊かに暮らしたいと思い、その願いが集まり、やがて、国を成り立たせていく。それは時として、神の意思をも押しのける力となる。
「私を神というのなら、お前は人となり、国を守れ。爽牙を王として、戴き続けろ」
 ざざん、と風が強く吹く。
 酒の気配が吹き飛んでいった。
 燕寿の瞠った目の中に、璃飄の姿が映りこむ。きっと自分の目にも、彼の姿が映っているだろうと、璃飄は思った。
 次にお互いの姿を映しあうのは、おそらく戦場。開戦の雄叫びを、上げる時だ。
「…璃飄、お前……」
「心配するな」
「なん、」
「私は、戦で死んだりはしない」
 戦いが終わったら、どこかへ行くのか。そう、燕寿は問おうとしたのだろう。
 璃飄は彼に、違う答えを差し出し、言葉を遮った。
 これ以上、問われる前に。問われれば、逝くのだという答えしか返せないと、分かりきっていた。
「私は将だ。戦い抜き、国の礎を作る役目がある。お前とて、それは同じことだろう、燕寿」
「璃飄、俺は…っ」
「どうも私は、戦ごとは得意でも、政となると不得手らしい。だからお前が爽牙とともに、礎の上に国を築け。法を編み、律を定め、民が平穏で暮らせる国を築いてくれ。私は遠くから、声援だけ送ろう」
 遠くからだ。遠くから、大陸を渡る風に乗せて、平和を願う思いを届け続けよう。
 未来を語り終え、璃飄は身を翻した。そろそろ戻らないと、いくら豪放磊落で豪胆な性情の爽牙とはいえ、いい加減にへそを曲げそうだ。
 下に降りるために、梯の架かる所へ歩いていく。
 いざ一段目に足を掛けたという時、取り残された燕寿が、大声で名を呼んだ。
「璃飄!」
「なんだ、私はもう行くぞ」
 素っ気無く返すと、燕寿の顔に思い切り焦りの色が浮かんだ。彼にしては珍しい反応に、璃飄はふと、小さく笑み崩れる。
 次の言葉を、耳にするまでは。
「戦が終わったら…、全部片付いたら、俺の嫁にならないか!?」
 璃飄は思わず、耳を疑った。嫁と、この男は言うのだ。
 軍略会議でずけずけとものを言い、戦場で剣を奮い数多の敵を切り伏せてきた、この鶯璃飄(おう りひょう)という、女に。
「燕寿、相当酔っているだろう。正気の沙汰じゃない」
「俺は正気だ」
「そうは見えないがな?」
 悪戯の気を含んだ笑みで、璃飄は燕寿の言葉をさらりと受け流した。
 燕寿は、冗談を言わない男だ。
 それを知った上で、璃飄は真面目に取り合うことをしなかった。
 再び、梯を降り始める。降りきったところで塞の上を仰ぐと、燕寿が焦った表情のまま、身を乗り出していた。  降りてきてしまえばいいものを。
 そう思いながら、璃飄は彼に気取られぬよう、かすかに笑った。
「璃飄、聞いてくれ」
「聞いている」
「だったら、返事は!」
 燕寿が望む返答は、自分にはない。
 そう、答えようかと思った。
 だが璃飄は、人となり国を守れと言ったのと同じ声で、まったく別のことを告げていた。

「私を嫁にしたければ、――駆けよ」

 駆けよ。
 地の果てまで。
 時の果てまで。
 安寧が国を満たすまで。
 王と共に、国と共に。

「駆けて駆けて、そして掴み取って見せろ」

 戦乱のない世を。
 民が笑い、緑が萌ゆる大地を。

「そうしたら、嫁になってやることを、検討せんでもない」
 それを聞いた燕寿の顔に、今度は悲壮の色が浮き出た。
「無理だ! 馬術でお前に追いつけるやつはいない」
「ははっ、じゃあ一生独り身だな」
「璃飄…っ!」
 背中を捕らえようと、呼ぶ声が聞こえる。
 だが璃飄は、もう振り返らなかった。
 真新しい塞の中を、石造りの廊を抜け、まだ砂の落ち着かない道を抜け、皆が集っている場所へ向かった。
 陽気な声が、近くなる。


 ――人の願いが、国を守る。平和を造る。
 そこには、神の力は必要ない。


  「…駆けよ。爽牙、燕寿、凰国の兵達よ」

 この目が映せぬ、平穏の刻へ。
 天運を呼び込み、悪運を退けて。
 目指すものを追い、ただひたすら。

「おお、璃飄! 何処に行ってたんだ。燕寿もいつのまにか消えちまうし、俺だけ退け者かぁ?」
「すまん、爽牙……いえ、国王陛下。今から、飲み直しましょう。御酌は私が」

 たとえ何かが失われようとも。
 一時も、迷うことなく。

「お前も飲むんだよ。大一番前の景気付けだ!」
「…はい。陛下の御心のままに」



 ――駆けよ
 一陣の風となり、夢の彼方の、なお向こうへと――…。







――――終――
2007.2
  




**あとがき**

「――駆けよ
 一陣の風となり、夢の彼方の、なお向こうへと――…。」


この一文が書きたかった。



執筆時の指定→恋愛物   ……え(・・)?

北方健三氏の「三国志」を読んだ時、ふっと頭を過った長編構想の一部分です。
チャイニーズ歴史ファンタジー
……の、一番いい所の前夜譚のような。

本編を書いてあげたいのですが、ワタクシの歴史の知識が卵の殻付いたヒヨコでして…。
勉強したいです。

本編ができたら、爽牙を璃飄が玉座まで駆け上がらせ、
今回の短編を挟み、大一番の決戦をして大陸統一……という流れになるはず。