everlasting -4




 体力の限界で足が自然に止まるまで、ヒューイはどこへともなく走った。
 走り疲れて足を止めた時、彼は自分がいる場所を認識して、それを俄かには信じられなかった。
 旧音楽室の扉が、目の前にあったのだ。
 腕時計に目をやると、すでに五時を回っていた。予定の時間から、一時間以上遅れてしまっている。
 ヒューイは慌てて、扉の取っ手に手をかけた。
 しかし、それ以上は動けなかった。この先に、昔の仲間達が集っているのは分かっている。そこに入っていくべきなのも、分っている。
 だが、フランツはいないのだ。
「…っ」
 ヒューイの手が、取っ手から滑り落ちる。
 彼は静かに、体の向きを変えた。これ以上、ここに居たくなかった。
 逃げるように、片足を突き出した、その時。

「あっ、ほらやっぱりヒューイ来たじゃないか! 誰だよ、『来ない』に賭けた奴っ」

 勢いよく開いた扉の向こうから、チェコフが顔を出した。彼の片手には、ティンパニー用のばちが二本、しっかりと握りしめられている。
「チェコ…!」
 咄嗟に動けなかったヒューイの腕を掴み、チェコフは彼を素早く部屋に引き込んだ。
「一時間も遅れてくるから心配したよ、ヒューイ。事故かなんかあったんじゃないかってさ。この教室、いつもは君が先に来ていたもの」
「…いや、別に……散歩してたら、時間がわからなくなって……」
 思わず弁明をしようとすると、チェコフとは別の手が、それを遮って肩を叩いた。
「ああ、もう言い訳はいいわ! とにかく久し振り、ヒューイ」
「フィナ……」
「ったく、久々に集まるってのに、遅刻なんざするなよな」
「クロウ…」
「皆、君を待ってたんだよ」
 戸惑うヒューイから防寒具を脱がせ、チェコフ達は彼の背中を押して、前へ進ませた。
 ピアノの横に立った時、ヒューイはようやく、部屋全体を見回せた。
 見慣れた顔が笑みを浮かべて、それぞれの定位置についている。あの時の仲間達が、二年の時を隔ててここに揃っていた。
 ヒューイはふと、時間が巻き戻ったような錯覚に襲われた。
「おかえり、ヒューイ!」
「あんたが最後なんて、珍しいねぇ」
「ほーんと、待ちくたびれたよ」
「授業居残りでもさせられたか?」
「まさか、学内で迷ったとかー」
「そりゃさすがに無いでしょ」
 次々に声をかけてくる仲間達の顔を、ヒューイは一人ひとり確かめるように見ていった。
 名前も、誰が何の楽器をやっていたのかも、はっきりと思い出せる。
「…悪い。遅刻した」
 ぼそりと呟くように謝罪すると、皆の間から笑い声が起きた。
 変わらない笑い声に、ヒューイもつられて、小さく笑うことができた。
「なぁなぁヒューイ聞いてくれよ! 俺さ、今度のコンサートでソロパート任されたんだぜ。入団二年、長かったぁっ」
「そうか。オルヴィ、よかったな」
「二年ぐらいなにさ。私なんて、ずーっと指揮者見習いで、舞台の端っこで見てることしかできないのよ!」
「…はは、シュザンナの指揮は巧いよ」
「いやいや、それでもいい方だって。僕なんていつも雑用ばっかり。……あ! 学生の時も楽器の片付けとか、よく押し付けられてたな…」
「じゃあ今日の片付け係もお前かな、ニーザ」
「ええっ。ちょっと勘弁……」
 何の曲を、どれだけ演奏しただろう。
 仲間たちと並んで、この手にヴァイオリンを携えて。
 ふと握った拳に違和感を覚えて、ヒューイは自分の手のひらを凝視した。
 何もかも昔に戻っていたような気分でいたが、当たり前に握っていたヴァイオリンの感触が、そこには無い。
 そして、隣を見ても、ピアノはカバーを掛けられたまま沈黙していた。
 二年の歳月は、ヒューイからフランツを奪い、ヴァイオリンを忘れさせたのだ。
 ヒューイは、弾き手の消えたピアノに、そっと触れた。
 途端、部屋の中が静まり返る。欠けてしまった存在を、皆どうしようもなく突きつけられていた。
静寂を背負いながら、ヒューイは緩慢に、ピアノのカバーを手繰り寄せる。最後の布端が滑り落ち、ゆるやかな流線型が、その姿を現した。
「……ヒューイ」
 今にも泣きそうな声で呼びかけてきたチェコフに、ヒューイは色々な思いを必死に押し殺して、微笑んで見せた。
 親友の死を、いつまでも引きずってはいけないと、認めなくてはいけないと、自分に言い聞かせる。
 そうしながら、ヒューイはピアノの蓋に手をかけた。


『あのね、ヒューイ。俺は、あなたと弾きたいんだ。だから――…待ってるよ』


 親友を憎んだ。憎むことでしか、自分を保っていられなかった。
 本当は、直ぐにでも泣き叫びだしそうで。その名を、声が枯れるまで呼び続けそうで。
 二人でいた時間を、精一杯の演奏ができていたあの時間を、取り戻したくて。
 自分が追っていた夢を、縋っていたものを、崩したくなくて――…。

 かたん、と音を立てて、蓋が上がりきる。
 つややかな黒鍵と、象牙色に変わってしまっている白鍵を、ヒューイは久方振りに目にした。





           
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 背景画像写真:Photo by (c)Tomo.Yun
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