everlasting -5




 なめらかに蛍光灯の光を弾く鍵盤を、端からゆっくりと眺めて行き――彼は、吸い寄せられるように、それに目を留めた。
 鍵盤の中央のあたり。いつも、フランツが座っていた場所の、ちょうど正面に、数枚の紙が折りたたまれて、置いてある。
 ヒューイは、何かに突き動かされるように、急いでその紙を拾い上げた。
「…これ、は……」
 それは、手書きの楽譜だった。
 タイトルは、『everlasting』。
 書かれてから時間がたっているのか、かすれて見えにくくなっている。
 はじめの一小節を読んだヒューイは、一瞬の間に体中を光が駆け抜けたような感覚を味わった。次に襲ったのは、驚くほどの熱――二年間忘れていた、音楽への渇望だった。
 彼は震えだした手で、次のページ、また次のページと読んでいった。
 三枚目の終わりから、つい最近書き足したのか、譜面に踊る音符は鮮明になっていた。


『待ってるよ、ずっと。あなたが音楽の世界に来るまで、俺の隣に来るまで。それまでは、この曲は弾かない。だからヒューイ、いつか…いつかでいいから、……』


 あの時、未完成な楽譜の前で、フランツは微笑んだ。音楽を続けていても、音楽家ではなくなろうとするヒューイを目の前にして、それまで一度も見せたことの無い、涙を流しながら。
 ただ、ずっと待っていると。
 最後のページの上に、熱いしずくが落ちる。
 紙の端に書いてあったのは、今からたった一週間前の日付。待っているという言葉と、そこに込められていた思いが、色あせていないという証拠だ。


『あなたと一緒に、世界一の舞台で、俺にこの曲を弾かせて』


「ヒューイ!?」
 体の力が抜け、ヒューイはその場に崩れ落ちた。手に持った楽譜の感触が、彼の意識の中で唯一鮮明だった。
「……フランツ」
 その名を呼んで、答える声はもう無い。
 ピアノの音も、もう聞こえない。
 しかしそれは、空虚なばかりではなかった。
「――今からでも、俺は、間に合うか…?」
 一度は外れてしまった道でも、今はまた、その道を歩きたいと、ヒューイは思う。
 だいぶ遅れてしまった。
 いつか世界一の舞台で、一緒に弾こうといったフランツの言葉は、もう守れない。
 だがそれを、音楽の世界をあきらめる理由にしてはならないのだ。
 ヒューイは片袖で涙をぬぐい、ピアノにつかまりながら立ち上がった。
「……ヒューイ」
「チェコ、……ヴァイオリンは、置いてないか?」
「え…」
「また皆で、演奏しよう。随分と遅れてしまったけれど……俺は、皆と同じ世界に入りたい」
 ヒューイが顔を上げた時、彼の胸の前に、クロウがヴァイオリンを突き出していた。
 ヒューイは、躊躇わずにそれを受け取った。
「はじめから皆、そのつもりだったさ。俺たちが揃ったら、演奏しないなんてあっちゃいけない」
「…そうだな」
 ヒューイは楽譜を、譜面台の上に立てかけた。
 そして、自分の定位置である、ピアノの横に立ち、ヴァイオリンを構える。


『弾いて、ヒューイ』


「ああ、弾くよ。フランツ」
 この場所から始まった夢を終わらせないための曲を。

 シュザンナが指揮台の上に立ち、手を振り上げる。その手が拍子を刻みだし、二年ぶりの演奏会は始まった。
 ヒューイは目を閉じ、弦に弓を滑らせた。
 一人欠けてしまった演奏。
 しかしこの時誰もが、ピアノの音色を聴いていた。





2008.10







*あとがき*

 管理人、音楽に関してはど素人です。
 ピアノがどうとか、クラシックがこうとか、語れるだけの知識もないのです。
 あくまで雰囲気。
 そう。大事なのは話の雰囲気!

 作中に名前を出した、パッヘルベル作の「カノン」と、ショパン作の「夜想曲」(ここでは9-2です)はとても有名な曲です。
 誰でも一度は聴いたことがある…はず。
 音楽関係は詳しくない管理人ですが、この2曲は大好きです。
 ●イソーのクラシックCDにも収録されていますので、機会がありましたら何らかの形で聴いてみてくださいね。

 読んでくださってありがとうございました。



 背景画像写真:Photo by (c)Tomo.Yun
 URL http://www.yunphoto.net