EDEN ~その雨の向こうがわ~


その雨のむこうがわ -32







 
 この涙も悲しみも、あなたが与えた。

 そのせいで、苦しんだ。

 けれどもう一度、あなたに会いたい。



      ◆◇◆




 つい先ほどまで土砂降りだった雨が、今はしっとりと絡んでくる霧雨に変わった。
 ランダは、窓越しに空模様を窺った。
 雲の流れが早い。空も明るくなってきている。
 それを確認すると、彼女は窓のそばを離れて、図書館へ通じる階段を駆け下りた。
「ロッド!」
「館内は走らない!」
 駆け寄ろうとした時に、びしっとした指摘が飛ぶ。
 ランダは思わず直立不動の姿勢をとった。それから、やや早足でロッドのところへ行く。
 ロッドは書架の前に立ち、目録を片手に蔵書の確認をしている最中だった。
 彼はランダを見ると、怪訝そうに眉を寄せた。
 毎度の事に、ランダは苦笑を禁じえない。
「そんな顔をしないでくれ、ロッド」
「生憎、この顔しか持ち合わせがないもので。…博物館の仕事はどうしたんです?」
「あんまりきっちりやると、肩が凝るものでねぇ。私も若くないんだよ」
「またそういう事を言って」
 ロッドは呆れて、深くため息をつく。
 だが、文句は言わなかった。ランダは、博物館長の職務として必要な事は、日々きちんとこなしている。
 ただその取り組み方が、ロッドほど細かくないだけなのだ。
「…で、何ですか?」
「ああそうだった。雨がもうすぐ止みそうなんだ。この分なら日も差すぞ」
 ランダが、やや弾んだ声で言った。
 ロッドは、一度窓のほうに視線を滑らせ、再び書架へ戻す。
 しかし、確認作業を再開する気配は無い。彼は、書架の本を見ているようで、どこも見てはいなかった。
 ランダは、握りしめられたロッドの手を、そっと解いた。

「長雨が降ると、あの時の事を思い出してしまうか?」
「…忘れないと、約束をしましたので」

 ロッドは、そっと目を伏せる。
 ひとりの女性の想いを乗せた契約を受け、神が与えた幻の一年間だった。
 それは、現実以上の意味を持って、ロッドの記憶の中に刻まれていた。
 あれから既に一世紀が経とうとしている。
 記憶は色褪せるどころか、鮮明さを増したようにも、ロッドには思えていた。

「あの一年は、僕以外、誰も知らないのです。この図書館の蔵書にすら入ってこない物語、まさしく…夢幻のような時間でした」
 あったのだと確かめる術の無い、しかし紛れもなく存在した一年間。
 ロッド以外に全てを知るものがいるなら、それは、今は亡き少女ただひとりだった。

「思い出すと、やはり泣きたくなりますけれど、忘れたいとは思いません。この悲しみや痛みすら、証明です」

 ロッドの手の中で、目録が閉じる。それはひとりでにカウンターへと飛んでいき、もとあった棚へ収まった。
 ロッドは、書架の奥へと進んでいった。
 奥に行くにつれ、年代が古くなる。
 目的の書架へ辿りつく。
 ロッドはそこから、一冊の本をゆっくりと抜き出し、表紙を自分のほうに向けた。
 その本は、臙脂色のカバーに、金色で見慣れたタイトルが刻まれている――はずだったのだ。

 昨日までなら。

「こ…れは……」

 それは小さな異変だった。無かったものが付け足されただけで、長命なものの物語にはよくある事なのだ。
 しかし短命な人間の物語に、しかも死後何年も過ぎてからというのは異例だった。

『レムリア ~雨の章~』

 タイトルの変わった本を前に、ロッドは動揺し、立ちつくした。
 一体何が起こってしまったのか。
 自分はまた禁忌に触れたり、約束を破ったりしてしまったのだろうか。
 マイナスの考えばかりが、ロッドの頭の中を占拠する。
 冷たくなった体の感触と、拡散していく光の粒子の映像が、彼の感覚の中に蘇えっていく。








          ―――次へ




 背景画像写真:Photo by (c)Tomo.Yun
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