EDEN ~その雨の向こうがわ~


その雨のむこうがわ -30







 雷の轟音が、その一瞬すべての音を呑み込んだ。雨の音も、レムリアの声も掻き消えていた。
 しかしロッドは、唇の動きで、レムリアが何といったのかを読み取っていた。

 ――生まれ変わること。

 その言葉を理解すると同時に、彼は、精神も肉体も黒い稲妻で打たれたような錯覚に陥った。
 読み間違いであってくれ。そう願ったが、レムリアの静かな表情は、その可能性を否定していた。
「どうして、そんなに大きな対価を…?」
 彼女の答えは分かりきっていたが、ロッドはそう問わずにはいられなかった。
「ロッドに思い出してもらうことが、それ以上に私には大切だったのよ」
 レムリアの体が、淡く光る。
 ロッドの腕から、彼女の感触が消えていった。

「…リミットね」
「レムリア…!」

 レムリアが、泣くように笑う。
 やがて彼女自身が光の粒子に変わり、徐々に拡散し始めた。
 ロッドがいくら留めようとして手を伸ばし、足掻いても、それは叶わなかった。
 拡散したものは、ゆっくりと空へ昇っていく。
「嫌です、レムリア! たった一年の時間を貰うのに、こんな対価なんて、あまりにも理不尽だ…!」
 光は拡散の速度を、ゆるやかに速めていく。
 まるで、事実の残酷さをロッドに見せ付け、彼の中に刻み込んでいくかのように。
「レムリア、いかないでくださいっ」
 ロッドは、残り僅かの光の粒子を留めようと、両の腕できつく抱え込もうとした。
 しかし光の粒子は、無情にも彼の身体をすり抜ける。
「約束、忘れないでね」
 実体を失ったはずのレムリアの声が、やわらかく頭に響いてきた。
「レムリア…っ」
 懇願するように名を叫んだ。それと、最後の一粒が空へ昇り始めるのとは同時だった。
 感触も温もりも、レムリアを感じさせるものは、ロッドの腕から完全に消えていた。
 彼の腕の中で、レムリアの魂は散じていったのだ。
 ロッドは、何も繋ぎとめられなかった腕を、無言のまま、じっと見つめる。絶望が、彼の心を侵そうとしていた。
 それを押し退けたのは、迸る激情だった。

「――神よ、我が主よ!」

 ロッドは、涌きあがる憤りのままに、天へ向かって叫んだ。

「何故あのような重い対価を欲されたのですか!?
 彼女の要求したものは、それほどまでに価値の大きなものだったのですか!?
 思い出してもらいたいと願う心が、これではまるで、罪であるかのようだ。お答えください、我が主よ!」

 応答はない。
 雨の音と、ロッドの声が、草原に虚しく響いた。

「…ならば」
 ロッドは拳を握り締めた。悔しさと苛立ちが、憤怒とともに彼の激情を押し上げる。

「ならば、天にまします最高神よ。契約を申し入れる!」

 雷鳴が轟く。雨が強さを増した。

「あなた様が僕に求める対価、何一つ拒まず、全てお渡しします!
 魂でも肉体でも持っていかれるがいい! その代わり、レムリアの魂が持つべき時間を、お返しください!!」

 ロッドは、あらん限りの声を出し尽くした。
 空っぽになった肺が空気を求めて、空咳が何度も出た。
 ごうごうと、強風が吹きぬけていく。
 それが、雨と雷を遠さける。
 あたりが俄かに明るくなった。
 ロッドは、いまだ整わない呼吸のまま、空を見た。
 厚い雲が途切れた空には、雨の余韻が霧のようにけぶっている。
 そこに日没を迎えたばかりの空の朱が映りこみ、空全体が薄紅色に染まっていた。
 その薄紅の中に、七色の光の橋が滲む。
 ロッドはその虹を目にし、涙を流した。
 憤りや、悲しみや、情けなさが溶け込んだその涙は、彼の頬に冷たいすじを残していく。

 最高神からの、対価の明示がなかった。
 それは、対価を要求しなかったという事だ。
 持ちかけた契約が、最高神には受け入れられなかったのだと、ロッドは思った。
 今かかっている虹は、契約の証としての虹ではなく、空間を繋ぐために出されたものだ。

「図書館へ戻れという、命令ですか…」

 言う声が震える。
 それは悲しみのためか、憤りのためか、あるいは両方かもしれない。

 ロッドは俯き、虹のある方へ、ふらふらと進んでいった。
 懐に抱えていた『レムリア』の重さが、彼に圧し掛かる。
 待ち望んだ帰還のはずなのに、嬉しい気持ちなど、心の何処を探しても見つからなかった。










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 背景画像写真:Photo by (c)Tomo.Yun
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