EDEN ~その雨の向こうがわ~


その雨のむこうがわ -3





 思い出が頭をちらつくのです。

 その度に、苦しくなるのです。

 だから、忘れてしまいたかった。




          ◆◇◆




 はじめに目に飛び込んできたのは、高く抜けるような青空だった。
 わずかな雲が、ささやかに彩りを添えている。
 久しぶりに、視界一杯の空を見た気がした。
 普段は窓越しに見上げているし、忙しい日は一度も空を見ないこともある。
 空とは、こんなにも広いものだったのかと、ロッドはぼんやりと思った。

「ロッド。ずっと寝転がっていると、踏み潰されちゃうわよ」
「!?」

 ぎょっとして、ロッドは上半身を起こした。膝の上に、角張った硬いものが落ちてくる。
 その衝撃に顔をゆがめながら、落ちてきたものを確認すると、あの中身の消えた本だった。
 いつの間にか、タイトルに『レムリア』と記されている。
 もしかしたら中身も回復しているのではないかと、ページを捲ったが、その期待は裏切られた。
 ロッドは、溜息とともに肩を落とした。
「ねぇ、大丈夫? 歩けないの?」
 図書館に来ていた女性が、しゃがみ込んでロッドの顔を覗き込む。
「…歩けます」
 力なく応え、ロッドは本を片腕で抱えながら、ふらりと立ち上がった。
 ついで、無意識にめぐらせた視線が捕らえたものに、言葉を失った。

 晴天の下、街道沿いに立つレンガ造りの家や店。
 それらは煙突から煙をあげ、ベランダやバルコニーでは洗濯物を風におよがせている。
 街道は、バスケットを抱えた女性やら、客引きをするコックやら、菓子を手にした子供達やらで、ごった返している。
 人々の話し声、駆ける足音、馬のいななき、水車が軋み水を汲む音。
 街の後ろには、緑を茂らす小高い丘がいくつも続いていて、その間を縫うように、道が伸びているのが見える。
 すべてが一つに溶け合い、この街にしかない音楽でも奏でているような、そんな陽気さがあった。
 ここは、夢幻図書館ではない。
 視界一杯の青空を見た時点で、どうして思い至らなかったか、ロッドは不思議だった。
 それに、何故だか懐かしいような印象を受ける。だが、彼自身は、一度もこの場所を訪れていない。
 図書館の蔵書を読んでいるうちに、そのどれかで、似たような風景描写に触れたのかもしれないと思った。
 がらがらと、背後から音が聞こえ出す。
 ロッドが振り返るのとほぼ同時に、一台の馬車が、彼の目鼻先を掠めんばかりのところを通り過ぎていった。
 ロッドは、馬車がとけていった町の入り口を見たまま、しばらく固まる。
「だから言ったでしょ。踏み潰されるって」
「………」
 相次ぐ衝撃に打ちのめされたロッドには、少し呆れたような女性の言葉に、返事をする気力が残されていなかった。


 女性は、リアと名乗った。
 彼女は街道沿いに歩きながら、ロッドに街の中を色々と紹介をしてまわった。
 パン屋、肉屋、青果店、日用雑貨店、生地・染物屋、レストラン、小劇場など、欲張りすぎではないかと思うくらいである。
 ロッドは、嫌がることなく彼女についていった。
 普段は図書館にこもりきりで、外と触れ合う事がないものだから、知識にしかなかったものに実際に見たり触れたりする事を、彼なりに楽しんでいた。
 夢幻図書館を空けてしまうことになるだろうが、ランダが居るので大して心配はしていない。
 それに、リアがそばにいた。表紙の絵が消え、中身は虫食い状態という本のタイトルを、詳しく見もしないうちに言い当てた。彼女は、この図書『レムリア』について、何らかの形で関わっているはずだと、ロッドは考えていた。
「…だからって、リア。こんないっぺんに買い込む事ないでしょう」
「えー、だって女の子ひとりじゃ、なかなか沢山の買い物って出来ないんだもの」
 悪びれもなく答えるリアを目の前にして、ロッドは、両腕に抱えた荷物をこの場で落としてやろうかと、真剣に考えた。
 街の中を案内するというのを名目に、リアは行く先々で、紹介がてらいろいろなものを買っていった。そして、彼女が買ったものの大半を、ロッドが持ち運んでいる。
 歩くたびに、紙袋の中で品物同士がぶつかり、音を立てた。
「女の子ひとり、なんて。父親とか、兄弟とか、恋人とか、いるでしょうに」
 突然、リアが足を止めた。荷物のせいで視界の狭いロッドは、彼女にぶつかりそうになる。
「リア、どうし」
「いないわ」
 どうしたのかと訊ねるのを、リアの鋭い否定が切り裂く。
 それは、冷たさと儚さを持ち合わせた、氷雪の響きをしていた。
 リアが振り返る。
「両親は、ずっと遠い所にいるの。それに、私は一人っ子」
 そう答えたときには、彼女から氷雪の気配は消えていた。
 ロッドは、自分の体から余分な力が抜けるのを感じた。知らずに、緊張していたらしい。
「そうなのですか。いないなんて言うから、てっきり亡くなったのかと思ってしまいましたよ」
「ちょっとー、勝手に人の親を殺さないでちょうだい」
「はいはい、すみませんでした」
「ん、よろしい」
 にこりと笑って、リアが再び歩き出す。荷物を抱えなおして、ロッドは彼女を追った。






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 背景画像写真:Photo by (c)Tomo.Yun
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