EDEN ~その雨の向こうがわ~


その雨のむこうがわ -28







 ぴくりと、リア――レムリアの肩が震える。
 ゆっくりと瞬きをした目が、さまようように動く。

「レムリア…」

 ロッドは、再び名を呼んだ。
 彼女の緑色の瞳が、ようやく焦点を結ぶ。そして、ロッドを捕らえた。

「…私の、名前」
「貴女の本当の名は、レムリアでしょう?」

 レムリアは息を呑んで、歩み寄ってくるロッドを見つめた。
 信じられない思いで、胸が一杯だった。
 リミットまであと僅かで、彼女は今し方まで、ほとんど諦めていた。
「…いつ、知ったの?」
「貴女が僕の図書館を訪れた、あの冬の日から。…ただ僕は、そのことを忘れていた」
 それは、思い出したことを意味する。
 ロッドはレムリアの手を捕らえ、自分のほうへと引き寄せた。
「我が主である最高神が、僕に告げてくださいました。…かの神と、契約を結んでいたのですね。それにより、貴女は一年間の猶予を得て、僕の前にあらわれた」
「…そうよ。ロッドが忘れてしまったら、思い出してもらうための時間がほしいってお願いしたわ」

 レムリアは、自分の手を捕らえてくるロッドのそれを、弱く握り返す。

「神様は私に、貴方に思い出させるための時間と場所をくださった。
 ただ、自分からレムリアだと明かすことや、前にあった出来事を教えるのは、禁じられたわ。
 それでも、一年も時間を貰って、ずっと欲しかった健康な体を持てて、憧れていた街に住めて、
 …なにより貴方とずっと一緒にいられて、幸せだった」

 ロッドは虚を衝かれて、小さく息を呑む。やるせなさと嬉しさがないまぜになったような思いがした。
「…貴女ことを、もっと早くに、思い出したかったです。ヒントとなることはいくつもあったのに、僕はそれが出来なかった…」
 本のタイトルを言い当てた事。
 名乗りもしないうちから、ロッドの名を知っていた事。
 家族や恋人のことを話題に出した時、恋人の事だけは答えなかった事。
 ロッドがとてつもなく長寿なのを知っていた事。
 他にも「リア」の言葉の中に「レムリア」につながるものが、いくつも散りばめられていた。
 それなのに思い出せなかったのは、無意識にでも、レムリアの死とそれに伴なう悲しみから、目を逸らそうとしていたからだと、ロッドは今、分かっていた。
「結構大変だったのよ。核心に触れないでいるのって。リアでいるのに、思わずレムリアに戻っちゃう時とかもあったわ」
「あの冬の雨の日ですか」
「そうね。意識を失ったふりして、急いでリアにきりかえたの。中々の名演技だと思わない?」
 そう言って、リアは悪戯っ子のように笑った。
 しかし、その笑顔は無理やり形作ったように、少しいびつだった。

「…貴女があの日を、『始まりの日』と言った理由が、今ならわかります。……それだけではありません」

 ロッドは言葉を区切り、目を閉じた。
 ずっと昔、レムリアといたいくつもの瞬間が、頭の中を過ぎっていく。
 その時言った言葉の一つ一つを、鮮明に思い出す事が出来ていた。

「虹の下で、約束をしましたよね。貴女が図書館に来たら、次は、僕がこの草原に来て、
 その次は、また貴女が図書館に来て、それを二人でいた証にしようという約束です。
 …それに、待っていると言ったのは、僕だった」

 レムリアは頷き、そのまま俯く。彼女の頬から、雨粒と一緒に涙がすべりおちた。

「…私、行けなかったわ。先に約束を破っちゃった…っ…。
 だから、ロッドは私を忘れてしまったんだって思って…ずっと怖くって、自分が許せなかった…!」

 それを聞いたとき、ロッドは衝撃に打ち抜かれた。
 レムリアが罪を感じる事など、何一つありはしない。
 それなのに彼女は、自分がロッドとの約束を破ったせいだと言う。
「レムリア、それは違います」
「違わない! あの時、図書館まで行ければ…ロッドに会えていたら…っ」
「レムリア!」
 ロッドはレムリアを、半ば強引に抱きすくめた。
 これ以上、彼女が己を責める言葉を聞きたくなかった。
 あの日レムリアが、図書館に辿り着き、ロッドに会う事が出来ていたら、ロッドは彼女を忘れなかったかもしれない。
 そんな過去を仮定することで、無意味に傷付いて欲しくなかったのだ。

「…僕が貴女を忘れてしまったのは、僕自身のせいです」

 ロッドの抱く腕に、力がこもる。その中で、レムリアが小さく震えた。









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 背景画像写真:Photo by (c)Tomo.Yun
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