EDEN ~その雨の向こうがわ~


その雨のむこうがわ -25







 『レムリア』に、忘れられていた物語が戻っていった。
 空白部の、一番初めのエピソード――レムリアが初めて夢幻図書館に来て、ロッドに出会った時のこと。それをはじまりに、彼女が彼とともに過ごした時間の全てが、一話ずつ、ゆっくりと刻みなおされていったのだ。
 ランダは、弟のそばに寄り添ったまま、その様子を見続けた。
 やがて全ての物語が回復すると、『レムリア』は強い閃光を放ち、ふわりと宙に浮いた。
 真昼の陽のような光の退いた後も、それは淡い光をまとい続け、ロッドと、彼の傍らにいるランダの近くを、ゆらゆらと漂っている。
 何か伝えたい事でもあるのかと、ランダは問い掛けた。だが『レムリア』は変わらずに、空中で揺れるだけだった。
 雨音が強くなる。風の唸りも聞こえだした。稲妻が空を走り、雷鳴が轟いた。

「……我が君」

 ランダが呟くと、再度、稲妻が空に馳せた。
 彼女が「我が君」と呼ぶのは、最高神ただ一柱だ。この雨も、風も、雷も、最高神の意思の表れだった。
 彼の神が、自分との会話を求めている。そして、何かを伝えようとしている。
 ランダは急いで建物の外に出た。
 途端、暴風雨が容赦なく彼女の身に降りかかった。服が水を吸い、重く圧し掛かってくる。
 彼女は、崩れそうになるのを堪え、必死に声を張り上げた。
「我が君、どうかお答えください! 夢幻図書館に…弟の身に、いったい何が起こっているというのですか!?」
 一呼吸の後、ランダのいる場所だけ、雨がやみ、風が穏やかになった。雷も、遠くで鳴っているように聞こえていた。
 下を見ろ、と神が伝えてくる。
 いつの間にか、ランダの足元の地面が乾いていた。
 そこに、必要なだけの水滴が落とされ、一文ずつ言葉があらわれる。地面に言葉を刻んでいるのは、神の言葉を綴る雨だった。
『ロッドの魂は今、レムリアの魂と共に、彼女の望んだ世界にある』
 レムリア。その名とともに、ランダの記憶から、栗色の髪と緑の目をした少女が浮上した。
 人でありながら、夢幻図書館を何度も訪れ、ロッドに恋をした女性。彼女は二十歳を前に、逝ってしまった。
「どういう、ことですか?」
 雨水が乾き、文が消える。そこにまた、雨水が落ちて文が刻まれた。
『レムリアは、私と契約を結んだ』
「…契約?」
『そう。――もし、ロッドが約束を忘れ、自分のことも忘れてしまう事があったのなら、彼に自分を思い出してもらうための機会がほしい』
 時間を巻き戻して、ロッドと出会ってから死別するまでの期間を、やり直すことは出来ない。
 しかし思い出してもらうことで、記憶にできた空白を埋める事なら出来る

『そのためなら、何を捧げても構わない。――そのように、レムリアは言った。
 私は、彼女の望みを聞きいれた。この望みをかなえてやる日が、未来永劫訪れない事を願いながら。
 …しかし、望みをかなえる日が来てしまった』

 ランダは、はっとして目を見開く。
 レムリアと弟の姿が、脳裏をかすめた。同時に、『レムリア』の欠落の理由に気付いた。
 ありとあらゆるものの存在の消滅を防ぐ、最後の砦。
 神代からの記憶や記録、物品などを留め、管理保存していく機関。それが、無限博物館と夢幻図書館であり、そこの管理者たるランダとロッドに課せられた使命でもある。
 そして、そこでの最大の禁忌とされるのは「忘れる」ことだった。

「我が君。…ロッドは、禁忌を犯してしまったのですね」

 忘れようとしなければ、忘れられないように造られた二人であるのに、ロッドはレムリアを忘れていってしまった。
 その忘却が、『レムリア』を朽ちさせたのだ。それこそ、禁忌を犯した証だった。

『管理者に忘れられたものは、世界から忘れられたものとなる。完全に忘れられた時、もう二度と認知されることはない。記憶も記録も肉体も、全てが無に帰すのだ。……それは、避けねばならぬ』

 雨が激しさを増す。
 真上で、稲妻が空を翔けた。

『…私は、ある条件を満たしていた場合のみ、契約は有効になると告げ、レムリアに対価を提示した。
 レムリアは、その対価を払うことを躊躇いもなく了承した。
 私は彼女に、人の感覚で言うところの一年間の猶予と、健常な体と、彼女が理想として思った世界を与えた。
 そして、彼女をロッドのもとへ送った』

「ある条件とは?」

『ロッドがレムリアを、わずかでも記憶していたのなら、ということだ。
 私はレムリアに、彼女自身の生涯が記録された本のタイトルを、ロッドへ告げるよう言った。
 ロッドが彼女をわずかでも覚えているのなら、〈レムリア〉と聞いた瞬間に、その魂は肉体から一時的に切り離されるよう、あらかじめ術をかけていた』
 ランダは「術」と聞き、図書館内でロッドを見舞った閃光と風のことを考えた。
「術をおかけになったのは、もしや、ロッドが『レムリア』を見つけ、手に取った時ですか?」
『その通りだ。そしてロッドの魂を、彼女の望む世界の中で、彼女の魂とともに一年を過ごさせるようにした。
 しかし、夢幻図書館長を、真に一年の間、眠らせておくわけにはいかない』
 そこで最高神は、レムリアの望んだ世界を、時間の流れの異なる亜空間として作り出し、そこに二人の魂を送り込んだ。

『すべては、一夜の夢を見るほどの時間に終わる。亜空間の中では、間もなく一年がたつ。日没後には、ロッドは目覚めるだろう…』

 神の気配が、その言葉を最後に遠ざかっていく。
「お待ちください、我が君! レムリアの対価とは…!?」
 それに対する答えは無かった。
 雨粒が再び、ランダの身体を打った。だがその雨には、神の意思は含まれていなかった。
「…日没後、か」
 ランダは、灰色の雲ばかりがひしめく空を見上げた。雨粒が頬や瞼に当たる。
 雲越しに届く光が、弱くなっている。夕暮が近かった。

 レムリアを失い、打ちひしがれ、ずぶ濡れで戻ってきたロッドを、ランダは思い出した。
 あの時と同じ状況を、弟には二度と味わって欲しくない。
 彼女は両の手を組み、頭を垂れた。
 天上にいる最高神に向かい、祈る。

「願わくば、ロッドが再び、悲しみの涙を流すことのないよう…」

 静かなその祈りの声は、ランダの雨粒とともに、足元で小さくはじけた。









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 背景画像写真:Photo by (c)Tomo.Yun
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