EDEN ~その雨の向こうがわ~


その雨のむこうがわ -2



「本が、光っている…?」
 呟くと同時にカウンター席を飛び出し、彼はくすんだ光を放つ本を取りに行く。
 頭よりすこし高い位置にあったそれを、手にした、その瞬間。

「うわっ…!」

 本を中心に、風の渦が起こった。息苦しいほどの強風が、ロッドの髪や衣服を引きちぎらんばかりに嬲った。
 光は強烈なものに変わり、彼の瞼の裏を焼く。
 幸いな事に、それらはものの数秒でおさまった。
 しかし、突然の現象に何の心構えも出来ていなかったロッドは、脳に直接雷でも落とされたような心地になり、しばらく呆然としてしまう。
 ランダは慌てて駆け寄り、彼の肩をつかんで、少し強く揺する。
「ロッド、平気か? …何だったんだ、今のは」
「…あ、…大丈夫、です。驚いただけなので。本から風が吹き上がるなんて、思ってもみませんでした」
 そう言う間に、ロッドは落ち着きを取り戻す。
 彼は、深呼吸をして、あらためて手にした本を観察した。
 裏表紙、奥付、ホロウバックの中などを順繰りに見たが、風を吹かせるような仕掛けなど、どこにも見当たらない。
 そして、表紙を上にしたとき、彼の表情に、再度の驚愕と、焦りが浮かんだ。
 ランダも、本の表紙の異変にすぐさま気付いた。
「絵が、なくなっている。それに、タイトルの字も殆んど消えて、読めない…」
「…ありえません、こんなこと。この図書館の蔵書は、世界の続く限り不朽のはずなのですよ!」
 ロッドは素早く本を開き、ページをめくった。異変が起きたのは、表紙だけだと思いたかった。
 だが、それはかなわなかった。  確かに綴られていたはずの文章は、所々が抜け落ちて紙の地肌をさらけだし、虫食いのようになっていたのだ。中には、十ページ以上に渡り丸ごと消失してしまった部分もある。
 一体何が起こったのか、ランダにもロッドにも、見当がつかなかった。
「本から内容が…記憶が、消えてしまうなんて」
 色をなくして呟いたロッドを、なんとか持ち直させようと、ランダは言葉を摸索する。図書館を創った最高神と会い、事態の説明を求めようかと考えた、その時だった。
 誰かが、館内に入ってきた気配がした。
 扉の開く音も、呼び鈴のなる音も、しなかったにもかかわらず。
「ロッド、来館者だ。ここの館長はお前だろう。…行って来い」
 どんな言葉よりもその一言が、ロッドには効果的であることを、ランダは知っていた。彼女の弟は、本を片腕に抱えたまま、来館者を出迎えに行った。
 その後で、ランダは気付く。
 あれほど強い風が吹いたというのに、本はただの一冊も、床に落ちたり、並びが乱れたりしていないのだ。風も光も、まるでロッドだけにしか作用しなかったかのように。
「…どういうことだ」
 その問いに答えるものは、今は無かった。


 ロッドは、自分の内面の状態がどうであれ、仕事は決して怠らないと決めていた。感情を優先して、仕事を放棄したことは、何度かあった。
 しかし、それは遥か昔だ。今ではもう、何があろうと仕事優先だと割り切っている。
 入り口付近で立ち止まっていた来館者を見つけ、完璧な作り笑いをうかべる。
 そこにいたのは、丈の長いセピア色のワンピースを着た、二十歳前後の女性だった。
 彼女をどこかで見たような気もしたが、ロッドは訊ねる事はせず、あくまで図書館長としての態度をとった。
「ようこそ、夢幻図書館へ。どなたの物語をお探しでしょう?」
 女性は彼を、一瞬もの言いた気に見つめた。だが結局この時は、何も言わなかった。
 ロッドは、彼女には明確な希望がないのだろうと思った。
 人間の住む所とは空間を異にする所に、無限博物館と夢幻図書館の建物はある。
 人間がここに辿り着くということは、その二つの空間の境界線を、その人の気がつかない内に踏み越え、迷い込んでしまったからだ。
 そういった迷い人であるである人間に、目的とする展示や図書がないのは、当然といえば当然だった。
 ロッドは、一礼をして、お決まりの台詞をならべた。
「では、当館おすすめの図書を、何点か御紹介いたしましょう。――そうですね。亡国の武将から、大帝国の王にまでなった青年の物語。才の高さゆえに悲劇的な生をおくったピアニストの物語。人の身ながら神を従えた少年の物語。…ああ、恋愛物のほうがよろしいでしょうか? それなら、父を幼少時に亡くした少女が…」
 説明しながら、彼は本を取りに書架のほうへ歩き出す。
 頭の中には、どの物語がどこに配架されているか、殆んど記憶されている。足取りに迷いはなかった。
 書架と書架の間に入った時、ロッドの服の袖を、女性が控えめに引いた。
「気になる本が、見つかりましたか?」
 営業用の笑顔で、ロッドが問う。
 女性は、彼の手の中にある、不完全な本を指差した。
 ロッドの表情が、一瞬、凍る。
 自分を見つめてくる女性の目が恐ろしく、胸が疼くように痛んだのを、この瞬間に彼は感じた。
 急いで本を後ろ手に隠し、彼は笑顔を無理矢理に引き戻す。
「…申し訳ございません。こちらの本は、ただいま修繕中でして、お貸しするわけにはいかないのですが」

「――『レムリア』よ」

「は…?」
 ロッドは、女性の言葉の表すところを、すぐに理解する事が出来なかった。
 女性はもう一度、今度はゆっくりと言い聞かせるように、言う。
「その本のタイトルは、『レムリア』よ」
 レムリア。
 その単語が、頭の中を巡り、心の奥底に落ちると同時に、ロッドの意識は現実を離れた。


 何かが砕けるような、また崩れ落ちるような音を、ランダは聞いた。
 妙なざわつきが、彼女の胸を過ぎる。
 彼女は書架の間を抜け、カウンターへ走った。着いた先で弟の姿を探すが、見当たらない。
 書架のほうか。だとしたら、奥深くに入られていては厄介だ。
 彼女は唇を噛み締めて、書架が両脇を遮る通路と、その奥の暗がりを見た。
 通路の一角、やや奥まったところが、ほのかに明るくなっている。ランダは、祈るような思いでそこへ行った。

「ロッド!」

 彼女は、うつ伏せに倒れているロッドを見つけた。
 抱き起こして呼びかけるが、返事はない。だが、呼吸も体温もある。まるで、眠っているかのようだった。
 すぐに彼女は、人の姿を探した。
 応対するロッドの声を、聞いている。
 迷い込んできた人間か、はたまた神や天使の眷属か、ともかく来館者がいるはずなのだ。しかし、影すら見当たらなかった。
 傍には、例の本が落ちていた。
 淡く光っていたのはこの本で、しかし今度は、その光は退くことはない。
 不思議なのは、それだけではなかった。
「本の、タイトルが…」
 いつの間にか、はっきりと読み取れるようになっている。
 ランダは眉を顰め、本を見た。

 タイトルは、『レムリア』――。





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