EDEN ~その雨の向こうがわ~


その雨のむこうがわ -15








 時間を巻き戻す事は出来ない。

 けれど、空白を埋める事なら出来る。

 その為には、何を捧げてもかまわないの。



     ◆◇◆




 冬の初めのその日は、朝早くから、氷雨が降っていた。
 夕方気温が下がってくれば、もしかしたら雪になるかもしれない。仮に止んだとして、明日の朝には地面が凍りついて、歩きにくくなっているだろう。
 夢幻図書館長のロッドは、そんな事を考えながら、いつものように蔵書の点検をしていた。書架を見回り、各蔵書が然るべき場所に配置されているか調べていく。
 それが終盤に差し掛かった頃、来客を告げるベルの音が鳴る。ロッドは点検を一時中断し、迎えに出た。
 無限博物館長のランダか、夢幻図書館長のロッドが了解しないと、建物の扉は開かない仕組みになっていた。それを無視できるのは、最高位の神か、彼に直接の加護や使命を受けたものだけである。
 来客は、一人の人間の少女だった。雨に打たれながら歩いてきたらしく、コートには雨粒がつき、栗色の髪も濡れていた。
「ようこそ、夢幻図書館へ。僕はここの図書館長で、ロッドと言います」
 ロッドはにこりと笑いかけると、少女の手を引いて、図書館の中へ招きいれた。館内に入った途端、少女の服や髪などが乾く。彼女は不思議そうに、自分の髪の毛を触った。
「もう少ししたら、身体も温まるでしょう。お嬢さん、よろしければ、貴女のお名前を教えていただけますか」
「…    」
 少女が、小さな声で答える。
「では、    。この図書館には、様々な物語が揃っています。きっと、貴女の期待に応えるものがあるはず。何か希望のものはありますか?」
 決まり文句を言いながら、ロッドは彼女を、図書閲覧スペースに誘導していく。
 彼女は、一度瞬きをした後に、申し訳なさそうに俯いた。
「……あんまり、家の外に出してもらえた事なくて…よく分からないの」
「そうでしたか。それでは僕から、当館おすすめのものを、何点か御紹介いたしましょう。――そうですね。亡国の武将から、大帝国の王にまでなった青年の物語。才の高さゆえに悲劇的な生をおくったピアニストの物語。人の身ながら神を従えた少年の物語。…ああ、恋愛物のほうがよろしいでしょうか? それなら、父を幼少時に亡くした少女が…」
 説明しながら、ロッドは本を取りに書架のほうへ歩き出す。彼の頭の中には、どの物語がどこに配架されているか、殆んど記憶されている。足取りに迷いはなかった。
 書架と書架の間に入り、一冊目を手に取ったとき、ロッドの服の袖を、少女が控えめに引いた。
「どうしました?」
 優しく問うと、少女はロッドの腕にしがみついてくる。一人にしないで。彼女は、無言のうちにそう伝えていた。
「では、一緒に館内を回って、よさそうな本を探してみましょうか」
 少女が、首を横に振る。それから、ロッドの手の中にあった本を指差した。本のタイトルには『The story of Franz』と記されている。
「この物語で、よろしいのですね。…主人公は、若き天才ピアニスト。名を、ラグドール・フランツ。才を神に愛され、魂を神に求められ……おっと、これ以上は、読んでからのお楽しみ。閲覧スペースで、椅子に座って、ゆっくり読みましょう。時間を気にする事はありません。貴女が望めば、この図書館に来たのと同じ時間に、元いた場所へ戻る事も出来るのですから」
 ロッドの言っている事でよく分からない部分があるようで、少女は首を傾げる。
「どうぞ、心行くまで。ここでは、時間さえ貴女を妨げたりしませんよ」
 ロッドは、椅子に座った少女に、表紙を開いた本を差し出す。
 彼女が物語に引き込まれるまでに、そう時間はかからなかった。







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