EDEN ~その雨の向こうがわ~


その雨のむこうがわ -1



虹を探しているの。

ずっとずっと。

そこに貴方との約束があるから。




      ◇◆◇




しとしとと、雨が降る。
木の葉を打ち、幹を伝い、草を撫で、大地に染みながら。

「こうも降り続くと、いい加減いやになってきますねぇ…」
 雫が競うように滑っていく窓を見て、紺色のローブ姿の青年は、眉間の皺を深くする。
 気を取り直そうとして眼鏡をかけ直したが、大した効果はなかった。
「そう言うな、ロッド。恵みの雨だろう」
「たとえそうでも、七日八晩降り続いてじめじめしっぱなしじゃあ、僕の可愛い本達に悪影響が出ます」
 抗議しながら、青年――ロッドは、聞き慣れた女性の声にあからさまに顔をしかめた。思い当たる人物は一人だ。
 もとより、この建物の中には、彼ら二人以外に誰もいないが。
「…で、ランダ姉さん。なんで夢幻図書館にいるのですか? あなたの持ち場は、三階と四階の無限博物館でしょう」
 ロッドがちらりと視線の送った先に、白いローブに身を包んだ、ランダの姿があった。
 双子なので、顔立ちそのものはロッドと似ているが、そこには女性的な柔らかさがある。
「姉が弟に会いに来てはいけないか?」
「おおいにいけません。ただでさえ忙しいのですから、邪魔しないでください」
「忙しいって…」
 ランダは、カウンターの上でいくつもの塔を形成している本と、しかめっ面をした弟を交互に見た。
「新しい物語が届いたのか」
「そうです。一刻も早く彼らに番号を与え、配架し、この図書館の蔵書として保管しなくてはならないのですよ。…同じものは、他にひとつとして存在しないのですから」
「ああ…、そうだったな」
 同じものが存在しないのは、ランダが館長を務める無限博物館の所蔵する物品も一緒だ。
 同じものどころか、レプリカすら存在しない。

 無限博物館と夢幻図書館は、人や動物の生きる世界とは空間を異にする所にある。
 かといって、神の住まう天上世界にはなく、ちょうど両者の中間に存在していた。
 無限博物館と夢幻図書館のある建物は、一見すると、貴族の屋敷のように優美な洋館だった。
 広大な森の中央に建てられているそれは、地下一階は所蔵庫、地上一階と二階は図書館、三階と四階は博物館になっている。
 しかし実のところ、建物内は階の区別はあれども、空間的制限は殆んどなく、各階とも、いわゆる四次元の世界に近かった。
 世界が誕生して間もなく、最高位の神の手により創設されたここには、神代から伝えられた叡知(えいち)の数々が収められていた。
 また最高位の神は、無限博物館と夢幻図書館の管理者としてランダとロッドの姉弟を造り、その任に着かせた。
 以来、おのれの歳がわからなくなるほどの永きにわたり、二人は館長をつとめてきている。

「姉さんのほうは、何か新しいものは届いていないのですか?」
「昨日、大層な物がひとつ届いて、コレクションに加えたばかりさ。なんと、あの大天使サティエル愛用の剣だ」
 妙な事を聞いたとばかりに、ロッドは手元の本から視線を上げて、姉を見た。
「サティエルって、後に闇の神となったサティエルですか? 彼はまだ生きているはずですけれど…」
「『戦いのない世界に、我が剣は不要だ』そうだよ。なかなか出来た男じゃないか」
「なるほど」
 ロッドは、カウンター上の本の塔を順々に見て、やがて一つの塔に視線を合わせると、その塔に向かって人差し指をくいと動かして招くような仕草をする。
 それに応えてか、膨大な本の中から一冊、重厚な装丁のものがロッドの手元へやってきた。彼が表紙に触れると、本はひとりでに開き、己に記されたものを示した。
 ロッドの指先が、文章を辿りだす。ランダは弟の手元を覗き込んだ。
「サティエル物語の最新刊ですよ。…ありましたね、この記述。――かの神は、聖魔大戦の折に振るった剣を、今、深き混沌の谷底へと投げ入れた。『光と闇の調和した戦なき世に、我が剣はもはや不要』と言いながら。――姉さんの言うとおりですね」
 ロッドの指が止まる。
 その地点から先には、数行しか書かれておらず、大量の余白と白紙の頁が残っていた。
「その日の夜に彼は行方をくらませたようですが、それより続きはまだ綴られていませんね。何かしら動きがあれば、また書き足されるでしょう」
 ロッドが本を閉じて、背表紙に数字とアルファベットを書き込んだラベルを貼る。
 すると本は彼の手から浮き上がり、カウンターではなく書架のあるほうへ移動して、自ら棚の中に滑り込んだ。
 その棚には、以前に配架されたサティエル物語全巻が、整然と並んでいた。
「本人の預かり知らぬところで、その者の生れてから死ぬまでが自動的に書き記され、書物として残されているなんてな」
「それが夢幻図書館の蔵書ですからね。誰でも死んでしまえば過去のもの、記憶の一部。実体は無となります」
「確かに存在したにもかかわらず、さながら夢や幻だったかのように、つかみ所がなくなる。そして、誰かの記憶に残っていたその存在も、徐々にだが確実に、際限なく霧消してゆく…か」
 その消滅を防ぐ最後の砦が、物品を留める無限博物館と、物語を留める夢幻図書館なのだ。
 ランダは、仲間の元に行った綴りかけの物語を見つめた。あの物語にピリオドが打たれた時、サティエルの肉体が無限博物館に収蔵されるのだ。
「さて姉さん、そろそろ持ち場に戻っ――」
「ロッド?」
 弟の言葉が途切れた事を不思議に思い、ランダはロッドの様子をうかがった。
 ロッドの視線は、書架のある一点、一冊の書物に吸い寄せられて、動かない。目は驚きに見開かれていた。





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 背景画像写真:Photo by (c)Tomo.Yun
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