神玉遊戯
 ――香の剣―― 捌





      ◇◆◇

「優希!」
 瞬の光のように鮮烈に、名前を呼ぶ声。
 この声が聞こえるといつも、動揺していた心も鎮まってくれる。
 重く湿っていた風を、涼風が吹き散らす。
「明敏、……遅いよっ」
「すまない。人探しに手間取った」
 人探し、と鸚鵡返した優希に、明敏は指先で「あれだ」と指し示した。
 小さな少女の側にもうひとり、彼女より少し年嵩の少女の姿がある。
 泣き叫んでいる風の小さな少女を、年嵩の少女の方が優しく宥めていた。
「どういう…、っていうか、どうやって……?」
「紫の情報網で割り出して、連れてきた」
 顔も名前も年齢も判らないところからだったので、さすがに時間がかかったと、明敏は続ける。
 公の情報網で判ることは紫にも判る。紫に判ることでも、公の情報網で判らないことは多い。
 守護妖のひとりが、以前そのようなことを言っていたのを、優希は思い出した。
 それにしても、たった二日で割り出して連れてこられるものなのか。
「……人攫い」
「致し方ないと言っただろう」
 思わず優希が呟いてしまったのを、明敏が渋い顔をしながらも、笑った。
 つられて、優希も笑ってしまう。
 致し方ない。
 あの夜は、諦めを含んで冷たく聞こえたと思った。しかし、実際に動いたのは真逆の方向だ。
 安堵も束の間だった。
 溜まった邪気は、桜に残り続けている。
 この邪気を完全に払うまで終わらない。
「明敏、声が聞こえた。妹神の、あやめ様の方だと思う。香に知らせて、邪気払いの剣舞を……って」
「そういうことか。……桜に蓄積された邪気が広がらないように抑えるため、妹神はあえて此処にいたのだろう」
 その時一条の光が、空からうねりながら降りてきた。龍体となった峯龍である。
 降り立った龍神は、菖蒲の兄神を連れていた。
『いきなり刀を振り下ろしおってからに! こんな乱暴者が紫の当主だと思わなかったぞ』
 開口一番随分威勢が良い。
 優希は思わず「何したの」と、明敏に耳打ちで訊ねてしまった。明敏は、それと判る程度ににやりと笑って「糸を両断して来ただけだ」と答える。
「連れてくるには、致し方なかったんだ」
「またそう言う」
 きっと、大した状況説明も無しに斬りかかったのだろう。
 時間がなかったのは判るが、かずらの主張にも何となく同意できる優希だった。
『皆、時間がない。もうすぐ日が変わる』
 虎轟の言葉が、皆の表情を引き締めた。
『…あやめ!』
 一本だけ、黒く染まらずにいた桜に、かずらは駆け寄った。
 その小さな手が幹に触れる。
 触れた所から波紋のような光が拡がり、かずらとよく似た少女の女神が、そこから抜け出るようにして現れた。
『あやめ、大事ないか』
『あにさまも、御無事で』
 菖蒲の香りが強くなる。香りの届いた場所の邪気が薄まる。
 しかし、薄くなるだけで消すにはまだ足りなかった。
『邪気払いの剣舞をする。剣を出しておくれ』
 かずらは、菖蒲の葉で剣の形を象った物を、袖の中から取り出す。
 あやめがそれに手のひらを翳(かざ)すと、葉は、直刃の紋を描く美しい刀へと姿を変えた。
 滑らかに光を纏う刀身は、真夏の木々の葉を思わせる新緑だ。
『参ります』
『よし』
 まず一歩、菖蒲の双子神は同時に踏み出した。
 ふう、と虚空へ向けてあやめが息を吹きかける。
 それを薙ぐように、かずらが刃を振った。
 刃が呼気にぶつかった瞬間。
 その場所に光が生まれ、爆ぜる火の粉のように、大きく散じた。
 菖蒲が香り、涼やかな風の波が広がる。
 風が届いた桜の花から、黒い色が、薄皮が剥離するように抜け落ちて霧散する。
 あやめの息をかずらの刃が薙ぎ、瞬の光と浄化の風を生む。
 菖蒲の香りが、剣先が翻るごとに広がった。
 墨染めの桜が、薄紅を取り戻していく。
 ちらり、ちらりと、花弁が散り、宙に流れ始めた。
 重苦しく生ぬるかった空気が、軽やかに変質していく。
「……これが、夏の道を拓く、菖蒲の香神の舞か」
「きれいだけど、何か、力強い感じがする」
 明敏と優希は、菖蒲の双子神の舞に魅了された。
 光を散らしながら、剣舞は続く。
 肌の上を流れてゆく風が、時を追うごとに爽やかさを増す。
 流れるような動きだった剣先が、ふと、天上を指した。
『あやめ、頃合いだ』
『はい、あにさま』
 あやめが、両の手で掬った水を撒き散らすような動きで、大きく袖を振った。
 風が、地面から湧き上がるような流れで空へ向かう。
 桜の枝がさんざめき、花弁が絶え間なく散る。大地が桜色に覆われてゆく。
 かずらが大きく踏み込んだ。
 胸いっぱいに息を吸い込み、吐き出すと同時に、横一閃に刃が振りぬかれる。
 一陣の風が生まれた。
 風は桜の群生にぶつかり、枝を下から力強く揺さぶる。


 ざん、


 ひと際大きく桜が音を立てる。
 すべての花弁が空へ舞い散る。

 瞬間、薄紅が夜の闇さえ遮り、視界を埋め尽くした――。