神玉遊戯
 ――香の剣―― 陸





     ◇◆◇
 
『良いのですか、我が主』
「峯龍(ほうりゅう)、何がだ?」
 優希が帰った後、明敏がひとり長考に沈んでいると、鈴を転がしたような女性の声が唐突に頭の中に響いた。
ついで、白い燐光を身にまとった金髪紅眼の美女が、空気から滲み出るように顕現(けんげん)する。
 明敏に従う白龍の女神、名を峯龍と言った。
 部屋の中が明るくなった。
『御友人に、誤解されたままですわ。主が冷たい方だと』
「……また、言葉が足りなかったか」
 明敏は眉間に皺を寄せ、苦虫を噛み潰したような表情になる。
 龍神が、その隣で密やかに笑い声をたてた。
『桜を散らすと言うだけではまるで、そう、物思わぬ石墨のようですわ』
 菖蒲の香神に願いにくるという少女を、切り捨てたかのような言い方だと、龍神は言う。
 そして、そこから続く言葉はいつも決まっているのだ。
『本当は、誰よりもお優しい方ですのに』
 言われる度、明敏は渋面を作って口を噤んでしまう。
 言葉が足りないのは認めよう。
 しかし、自分よりもよほど、優希のほうが優しいと思うのだ。誰よりもというのは得心しかねる。
「……致し方ないんだ」
 明敏は意識して深呼吸をし、背筋を伸ばした。
 思考を切り替える。
「桜を散らし、春の陰気を消し、夏の道を開く。力を借りたい、峯龍」
『それが、主の命ならば何なりと』
 返事をすると、笑い声の余韻を残し、峯龍は隠形(おんぎょう)する。しかし、気配はすぐ後ろに控えていた。
 次に明敏は守護妖達を集めた。
 菖蒲の妹神の居場所は、雲棚の桜と見て間違いはないだろう。
 兄神のほうも、優希の話から材料を拾ったので、特定までにそう時間はかからない。
 夏の先駆けの菖蒲の香神はじきに揃う。
 そして、桜を無事に散らすには、ひとつ必要なことが出来た。
「時間がない。守護妖達は、新しい捜し物を急いでくれ」
 立夏は、二日後だ。

     ◇◆◇

 思念の糸が体の自由を奪う。
 身動きだけではなく、神力まで奪われているのではないか。
 そう思うほどに、四肢が重怠く、意識は日を追うごとに眠りの縁へ引きずられるようになる。
(あやめ……)
 古びた社に結びつけられたまま、かずらは夜の空をふり仰いだ。
 月の明るい夜だった。
 明日は立夏。本当ならば、日が変わる前に夏の道を拓かなければならない。
 しかし、このままでは。
『…、!』
 不意に、強い神気が近くに降りたった。
 草を踏み分ける音が続く。
 音の近づいてくる方へ、かずらは意識を集中させて観察する。
 いつもの少女のものではなかった。もっと落ち着いた、ゆっくりしたもの。
 やがて、茂みの暗がりに、影が形をなして見えた。
 その影の手には、――月光をはじく、白刃。
『お前は……っ!』
 白刃が閃き、振り下ろされた。

     ◇◆◇


 ざんざんと、散り遅れた桜の群がさざめいていた。
 風の割に、よく枝が揺れている。
 満開の桜を見ながら、優希はずっと抱えていた違和感の正体に気づいた。
 いくら揺れても、風が吹いても、花びらの一枚も散らないのだ。
 それはとても美しく、そして奇妙な光景だった。
 雲棚の桜がある場所を結界で覆い、空間を隔離しておくことが、今夜優希が明敏から頼まれたことだ。
 優希はひとり先に来て、結界を重ね、壁を織りなした。その壁は、無関係の者を通さない。
 ぱん、と柏手を打ち、手の平を引きはがす。そこに小さな立方体が浮いている。
 空中に投げ上げたそれは、瞬く間に巨大化して透明な箱となり、この場所に覆い被さった。これで、七重。
 着々と事を進めながら、気はそぞろだ。
「やっぱり、散らせないと駄目かな……」
『気を込めねば、結界は脆い硝子も同然となるぞ』
「うん、虎轟。わかってるんだ、けれどね」
 本当に、これが最善か。
 明敏は、致し方ないと言っていた。自分もそう思う。同時に、思い切れないところがあることも、優希は気付いていた。
 季節の巡りは気の巡り。気の巡りは命の巡り。
 止まらずに繰り返されるそれは、神代からの恒常(こうじょう)の理(ことわり)だ。