神玉遊戯
 ――香の剣―― 伍





 …て、わたしのこうに、……せて……。
 はやくしないと、ここから、……が、……ってしまう…!

     ◇◆◇

 踏ん切りのつかないまま、優希は二日後に紫の屋敷を訪れた。
 夕食を腹に入れた後、先日の夜の事を明敏に話す。
「小さな男の子の姿でね、太刀を助けてって言ってた。それに、自分が菖蒲の香神の片割れなんだとも」
 少女の去った後しばらくして、落ち着いたかずらは、優希に教えていた。
 菖蒲の香神は、双子神。
 かずらは兄で、菖蒲の香りを司る神だった。
 そして、妹神の名はあやめ。菖蒲の太刀を司る女神だ。
 太刀に香を乗せて風の刃とし、春の間に澱んだ空気を払うのが、菖蒲の香神の役目なのだ。
 ――『あやめは、我より情が深い。少女の想いに囚われて、ここから引き離されてしまったのだ……』
 太刀を助けてくれとは、その妹神を助けて欲しいという事。
 優先すべきは、少女の願いよりも、季節を巡らせる先駆けの役割だ。
 散々苦しんだ末の結論だろう。その上で、神使いたる紫の力に頼ろうとしたのだ。
「では、俺が聞いた声は妹神のほうだったということか」
「……ちょっと、それだと、まだ合わないんだよなぁ」
 首をひねる優希に、明敏も同意見だとばかりに頷く。
「少女の思念に連れて行かれたのが妹神ならば、兄である香を返してくれとは、確かに妙だ」
「もしかして、聞き違い、とか。はっきりとは聞こえなかったって、この前、明敏は言ってたよね?」
「……有り得るな。だとしたら、本当に伝えようとした言葉は何だったのか」
 明敏のもとに、菖蒲の香神の声があったのは、初めの夜の一度きりだ。
 途切れがちで、か細いその声から、一つの台詞を正確に断定するには、材料が足りない。
「妹神が引き離されて、どこに行ったか」
 それが解れば一番手っ取り早かった。
 しかし、春の間に澱んだ気が、探ろうとする明敏の勘を阻み、守護妖達の探査を鈍らせていた。
 これほど重く春の気が凝ることは、今までなかったのだが――。
「あの、さ……」
 歯切れ悪く、優希が切り出す。
 明敏は深く嵌りそうだった思考から、意識を友人に戻した。
「丘の上に咲く桜って、知ってる?」
「――それは、雲棚(くもだな)の桜のことだろう」
 満開の花をつけた桜の枝が折り重なる様子が、まるで雲が棚田を成した様だと比喩されたことからその名で呼ばれている、桜の群生のことだ。
 このあたりで、丘の上の桜といわれて思い当たるのは、まずそこだった。
 公園が併設されているので、子供の遊び場としても条件が当てはまる。
「いくら今年の桜が遅かったとはいえ、とうに散っているはずでは……」
 言い掛けて、明敏は続きを飲み込む。
 散りゆく桜。
 春が終わりへと加速度的に向かう様子。
 桜吹雪。
 薄紅の乱舞は、時に視界を塞ぐほどに。
「……そうか、桜か」
 自分の、感覚を鈍らせていたものの正体は、桜の雲。
 桜は、冬の間籠もっていた神々が、春と共に降り立つ植物だ。霊木としての力はかなり強い。
 多くの桜が散ることを拒み、春が過ぎるのを厭(いと)ったならば、微弱な菖蒲の香神の力が及ばなかったとしてもおかしくはない。
「優希、祈りにきた少女は、桜をずっと咲かせていてくれと言ったのだな」
「そう言ってた。だから、まだ咲いたままなんだと思う」
「……その少女の強い思いに、桜も引き込まれたのだろう」
 思いが果たされない限り、桜はきっと、自ら散ろうとはしない。
「無理矢理、散らせるの…?」
 優希が不安げに訪ねる。
 明敏は首を横に振った。
「出来なくはない。が、桜は恨みを残し、そこに邪気が集まる。あふれた邪気は、願いをかけた少女に取り憑くだろうな」
「でも、咲いたままだと、菖蒲の香神達が夏の先導になれない」
 少女の願いを潰すのは、心が痛む。
 さりとて、私情で季節の巡りを歪めることなど、許されるはずもない。
 優希の脳裏に、かずらの苦しげな表情と、少女の願う姿が交互に浮かぶ。
 明敏も、難しい表情のままだった。
 結局、どう動くことも出来なのだろうか。
 雲の中に捕まったように、先も取っ掛かりも判らない。感情に任せた台詞も、頭を納得させる理論も、喉の奥で凍り付く。
 ほんの数呼吸の間の沈黙が、ひどく長かった。
 不意に、明敏が溜息をつく。
「致し方ないな」
 ぽつりと落とされたその言葉が、優希の脳裏にあった少女の姿を潰した。
「明後日の夜、桜を散らす」