神玉遊戯
 ――香の剣―― 肆





 香りがする。探していた、菖蒲の香りだ。
 ひんやりした平たいものが、ぴたぴたと頬に当たる。
 軽く当たるだけだったものが、徐々に勢いを増す。終いには引っ叩くように乱暴になった。
『しっかりせい、軟弱者が! それでも神族に縁ある一族の長か!』
「…いった…たっ、痛いって!」
 耳がきんとなるくらいに甲高い声と、あまりの痛みに、優希はたまらず跳ね起きた。
 目の前に、見知らぬ少年が立っていた。見た目の年は、六つか七つ。
 黄色い瞳が夜の暗がりにも鮮やかだ。右手に、剣の形を模して束ねられた菖蒲の葉が握られており、これで叩かれていたのだろうと優希は察した。
 周囲を観察する。
 空は暗かった。夕暮れから、一時間は経過しているだろう。
 何かの建物の裏手の、雑木林の中のようだった。
 祠ほどに小さな社があり、その周りは野生の菖蒲が茂っている。しかし、思うほど菖蒲の香りが強くない。
『ようやく目を覚ましたか。紫の名が泣くぞ』
 少年がふんぞり返る。
(――この子が、菖蒲の香神様だ)
 少年からこぼれる神気が、優希にそれを理解させる。
 夏の先導として邪気払いを行う神ならば、もっと強い力があると思っていたが、その予想は外れてしまった。
 少年から感じる神気は微弱で不安定だ。
「菖蒲の神様、人違いです」
 まだ痛む頬をさすりながら言うと、菖蒲の香神が口を「え」の字に開けて一瞬固まった。
『し、しかしっ。神族を連れていたではないかっ』
「俺のは虎神、向こうは龍神です」
 言うと同時に、優希の背後に強い神気を伴い、漆黒の虎が姿を見せる。
 菖蒲の香神が息を呑む。条件反射のように、虎轟を前にして平身低頭していた。
 菖蒲の香神と虎轟では、神族の格が違いすぎるのだ。
『手荒に扱うな。この者は、我の契約者だ』
 虎轟の口調は優しかったが、菖蒲の香神はさらに縮こまってしまう。
 勢いの消えた声で、彼は優希に非礼を詫びた。
「気にしないでください、よく間違われるので。……紫の当主なのは、俺の友達のほう」
『……、そうであったか、違うのか』
 落胆の色が、少年に広がる。
 明敏と間違えて、優希を無理やり引き摺り下ろしたその行為は頂けない。
 しかし、この小さな神は、明敏に力を借りようとして、気持ちが逸ってしまっただけなのだろう。
 悪気があったわけではないのだ。
「……あの、菖蒲の神様」
『かずらで良い。呼び易かろう』
「じゃあ、かずら様。俺は紫の当主じゃないけれど、一応神使いです。多分出来る事は、あると思う。さっきの〝太刀を助けよ〟ってどういうことなのか、話を――」
 言いかけた口を、叩く勢いの手がふさぐ。
 優希はかずらに、無理やり菖蒲の茂みの中に引きずり込まれた。
「なにす…っ」
『黙っておれ!』
 潜めた声で鋭い叱責が飛ぶ。
 優希は喉の奥で言葉を止めた。
 草を踏む足音。音と音の間隔が短く、忙しない。段々と近づいてくる。
 小さな影が、茂みを割って出てきた。五歳か、多く見積もっても六歳の少女だった。
 彼女は社の前に立ち、ぴんと背を伸ばして立った。
 ぎゅうと手を合わせ、それに額を押し当てる。
「かみさま、かみさま、おねがいします」
 幼い声が、必死の訴えの言葉を紡ぐ。
「どうか、おかのさくらを、ずっとさかせていてください」
 飾りも何もない、ただ真っ直ぐな、その願い。
 真っ直ぐすぎるゆえに、それはひどく強い。
 言葉が終わっても、少女はしばらくの間、手を合わせたままでいた。
 ぬるい風が吹き、木の葉や草が揺れる。
 やがて少女は、社に一度頭を下げて、来た道を戻って行った。
 優希は茂みの間から、少女の姿が見えなくなるまで見送った。
『……先の冬にの、友人が、遠くへ行ってしまったそうだ』
 かずらが、独り言のようにつぶやく。
 優希ははっとして、幼い神を見る。
 その体にはいつの間にか、細い糸が何本も絡まりついていた。
 糸はより合わさり、縄ほどの太さになり、かずらを社に結び付ける。
『……丘の上に咲く桜。その下で、この春も共に遊ぼうと、約束をしていたというのに』
 人の想いは、時に大きな力となる。
 強いそれが折り重なり積もってゆき、やがて神族を拘束してしまうほど堅固なものになる。
『――どうすれば、よいのだ…っ』
 苦しげな声には、悔しさと、憤りと、切なさが、複雑に混ざり込んだ。
 堪えるように握りしめた手は、力が入りすぎて白かった。
『我は……、我は夏の先触れたる、菖蒲の香神の片割れぞ! 桜を散らせず、春を留め置く力など、持ってはおらぬ。……だのに、あの娘は我に祈りに来る。友を待つ時間を伸ばしてくれと、毎日毎日、ああやって。何の力にもなれぬ我に、願うのだ!』
 全身を震わせ、かずらは叫んだ。
 絡まって見えたのは、あの少女の願いだ。
 かずらの心に、少女の願いが響いてしまった。その為、それは糸の形となり具現化し、かずらを絡め取ったのだ。
 優希は無意識に、服の上から心臓を抑えていた。
(痛い、なぁ……。こういうのって……)
 叶えてやりたかったのだろう。
 しかし桜を維持する力を、菖蒲の香神は持っていない。
 この国の神は、万能ではない。八百万とも数えられる彼らには、それぞれ不可侵の役割があり、特化した能力がある。
 判りきっていることだ。
 判っていても、こういう事にぶつかると、頭の理解とは違うところで痛みが走り、何とかならないかと訴える。
(……何とか、ならないかな。……明敏だったら、どう考えるだろう?)
 何をするのが、最善となるのだろう。
 優希は、幼い少年の姿をした神をじっと見つめていた。