神玉遊戯
 ――香の剣―― 参





「…っ、虎轟! 追いかけられる?」
『無論だ。しっかり掴まっておけ』
 優希が虎轟の背に飛び乗る。
 長い毛足を掴むとすぐに、漆黒の虎神は風を追って上空へと駆け上がった。
 四肢が大地を蹴るように虚空を蹴り、大きな体躯(たいく)は入り乱れる風をぐいと掻き割って進む。
 優希は空気の抵抗に目も開けられない。
 しかし、菖蒲の香りと声が感覚から消える事はなかった。
 このまま付いて行ければ、辿り着けるはず。
 ごう、と。
 風が急に咆哮(ほうこう)を上げた。
 渦巻いたそれが下から押し上げてくる。
 虎轟の体が傾(かし)いだ。
 背から振り落とされそうになるのを、優希は必死でこらえる。毛を掴む手に力がこもる。

 ――たす よ、たちを、たすけよ…!

 途切れがちだった声が、明確な言葉を形成した。
   音に宿る言霊が、その意味を届ける。
 たち、は、太刀。
「どういうこと…?」
 明敏が言っていたのは『私の香を返して』だ。
 それなのに、今聞こえたのは『太刀を助けよ』というもの。
 言っていることが違う。だが、どちらも菖蒲の香りの風がある。
 片方が偽りなのだろうか。あるいは別の理由が。
 再び、うねる風が下から突き上げる。虎轟の身体が引っくり返る。
 優希は木の葉のように空中へと引き剥がされた。
「――っ、虎轟っ…!」
 叫んだ声は風音が掻き消す。
 うねる風が、意志あるもののように優希を捕えた。
 そのまま、地上へと引き摺り下ろされる。
 急速に落下する感覚の中、菖蒲の香りが強くなるのを感じていた。

     ◇◆◇

 その夜。禊(みそぎ)を行い、霊力と感覚を研ぎ澄ませた明敏は、菖蒲の香神の居場所を占じた。
 優希に探るよう頼みはしたが、彼からの報告を待つだけというのも他力本願が過ぎる。
 北極星を中心に緻密(ちみつ)な星図が描かれている占盤は、しかし、思うように答えを示してはくれない。
 見えそうなところで、視界が砂塵に塞がれるように、感覚が鈍くなる。
「……砂埃か。いや、もっと別の何か……」
 時間だけが折り重なり、沈殿して重苦しくなる。
 ため息を一つ吐いた時だ。
 障子の向こう側から、高い声がした。
「明敏さま、お茶を用意しました」
「ああ…、ありがとう茜玉(せんぎょく)」
 現れたのは、見たところ十代前半の少女だ。名の示す通り、茜色の髪と瞳が印象的である。
 彼女の本性は、風を操る鳥のあやかしだった。
 紫総本家には、その家名に因んで色の名を冠した従者が、彼女を合わせて現在四人いる。
 茜玉(せんぎょく)、翠玉(すいぎょく)、黄玉(おうぎょく)、青玉(せいぎょく)――あやかしに属しながら、代々の当主の膝下にあり、総本家を守る彼らは、一族の間で守護妖(しゅごよう)と呼ばれていた。
「菖蒲の香神様は、見つからないのですか?」
「もともと、それほど強い神ではない。一柱だけで、しかも弱っているとなると、……難しいな」
 最後の呟きには、おのれの未熟を悔いる念が滲(にじ)む。
 滞りそうな気持ちを切り替えようと、茶を口に含む。かりんが入っていたようで、鼻を抜ける吸気が冷たさを帯びた。
 おかげで、思考が多少回るようになる。
「……なぜ、香りを失うようなことになったのか、どこで失ったのか。それが解れば手も打てるのだが、……解っているのは、人間が何らかの形でかかわっているということだけだ」
 神族同士のいざこざならば、神族内で片が付く。
 人間の意志や行動がそこにかかわった時に、人でありながら神族に通じる紫の力が、必要になるのだ。
 誰かが、何らかの形で菖蒲の香神を阻んでいる。
 夏の到来を拒みたいのか、菖蒲の香神から香りを奪うことが目的なのか、あるいは他に何か欲するものがあるのか。
「邪法を使った者がいるとの報告は、上がっていませんし……」
「術者では、ないのかもしれないな」
 切り捨てていた可能性が、口に出してしまうと意外なほど重さを持った。
 人の想いは、時に神族をも動かす大きな力となる。
 明敏と優希が、それぞれに神を持ち得ていることが、そのひとつの証と言えるだろう。
 明敏は少しの間目を閉じて、どう動くかを考えた。
 月が替われば、端午の節句まで五日。今年は、そこに立夏も重なっている。それまでに終わらせなければならない。
 残された時間は、少なかった。
「調べる範囲を広げよう。守護妖の皆に、手勢を貸すように伝えてくれ」
「わかりました。すぐに」
 茜玉は一礼し席を立った。

 その日のうちに、守護妖たちの手勢は放たれた。
 茜玉は、昼間に空を飛ぶもの達を。
 翠玉は、夜目の利くもの達を。
 黄玉は、山に潜むもの達を。
 青玉は、水に沈むもの達を。
 それぞれに動かして、探りの手を伸ばす。