神玉遊戯
――香の剣―― 弐
カレンダーを五月に変えようというころなのに、天気予報は連日の曇天と、冷夏の予想を告げる。
今日も日差しには恵まれず、外気は朝から変わらずに冷えたままだった。
一日の授業を乗り切った後の放課後。
古宮優希(こみやゆうき)は、珍しく最終授業まで学校にいた親友に、人のいない旧校舎の一室に連れ出された。
話題は、昨夜にその親友――紫明敏が体験した出来事だ。
「菖蒲の香神様? その神様が『私の香を返して』って伝えてきたんだ」
「はっきりと聞き取れなかったが、おそらくそう言っていたのだと思う。風で声を届けるのがやっとだったようだ。その後は何もない」
高校生らしくない会話だが、これが彼らにとっては当たり前だった。明敏は、常人の目に映らないモノが見える目や、声を聴ける耳を持っている。紫の血筋ではないが、優希もまた同じだった。
「香が無いとどうなるの?」
「……そうだな。簡単に言うと、夏が来ないかもしれない。季節そのものはあるだろうが、そこには神霊が宿らないだろう」
「夏が来ないって…、っ」
驚きすぎた優希は、咄嗟に言葉が続かない。予想を通り越した事態の大きさだった。
「それって、どうして?」
「端午の節句だ」
今では五月五日に定着している端午の節句だが、もとは、各月の初午の日を指した言葉だった。
「それと香神様と、……あ、そっか。菖蒲って端午の節句に菖蒲湯にするんだ」
菖蒲の読みの「しょうぶ」を尚武とかけて、武家の祝い事に用いたのは江戸期からである。
葉の形が剣に似ていたので、武に通じる植物として重宝された。こどもの日に男児の成長を祝うことは、その習いから来ていた。
「昔から、菖蒲や蓬などの香りの強いものを使って、邪気払いをしたのが端午の日だ。季節と季節の間にそれを怠ると、前の季節にたまった邪気が残り、次の季節の到来を鈍らせる」
「邪気が溜まるって、季節の変わり目は風邪に憑(つ)かれやすいってやつ?」
「その上、一度憑かれると長引くだろう。周りが不浄であるなら至極当然だな」
そこまで聞いて、優希はようやく得心がいった。
菖蒲から香が消えたということは、邪気払いの力が失われたということ。夏を迎える準備が、調えられないことになる。
道理で、晩春にしては夏の気配の薄い日が続くはずだ。
「季節の変わり目の、空気の大掃除って感じかなぁ」
「まぁ、そんなところだ」
状況を呑み込んだ優希は、明敏に向き直った。
この親友が、こういう類の話を持ち出した時は、その家業が絡んでくる時。そして、自分の力が必要とされている時だ。
「……今回もやっぱり出るんだね」
「神族絡みは、俺達の領分だろう。……協力してくれるか?」
俺達、と聞いた優希の顔が引き締まる。あどけなさの残る十七歳の彼が、その刹那、不意に姿をくらませていた。
「もちろんだよ、親友だろ」
迷いなく応えると、明敏の怜悧(れいり)な顔立ちが、幾分か笑みにゆるむ。
優希は、彼に頼ってもらえたことを誇らしく思いながら、笑い返していた。
「明敏、俺は何をしたらいい?」
「菖蒲の香神の居場所を、探してもらいたい」
◇◆◇
………て、わたしの、こう……
はやく……ここ…ら、……しまう……――。
◇◆◇
西の空が赤くなるころ。
優希は帰路につきながら、先ほど明敏からの依頼の取っ掛かりを、頭の中で模索していた。
香を失った菖蒲の香神。香が戻らず、邪気払いが出来なければ、春の間に澱んだ気が道を塞いで、夏が来なくなってしまうという。
「…さて、どうやって探そうかな。ねぇ、虎轟(こごう)?」
呼びかけに答えるように、水気を含んだ冷ややかな空気が、背後に降り立つ。
手の甲を掠る、柔らかな毛皮の感触。それは、普通の人間は感じず、触れられず、見る事も無いものだ。
青い瞳に、漆黒の毛並をした虎神。そうすることが当たり前かのように、優希の隣に陣取り、歩みを進めていた。
『香が無いのであれば、香を残している菖蒲を探せば良かろう。辿っていけば、その者のもとへ着く』
落ち着いた男性の低い声が、優希の頭の中に直接響いた。この虎神・虎轟の声だ。
真夜中の海鳴りの音が、声を聞く度に連想される。水を支配することから付いた〝壊流(かいりゅう)〟という二つ名が、よく似合っていると思った。
「匂い、か。……香神様に会ったら、誰が、どうやって香りを奪っていったのか聞かないとな」
まだ情報が揃わない以上、下手に動けない。
普段通る道を迂回して、優希は花屋に立ち寄った。
店頭の一角にあった菖蒲の束は、目の前まで近づいても殆ど香らない。二件目、三件目も、結果は同じだった。
「んー…、何でだろう。花はついてるのになぁ」
今日の所は、諦めて帰るべきか。
そう思った矢先だった。
不意に強い風が吹き、探していた香りが鼻腔を通り過ぎる。
同時に聞こえた、悲鳴のような、声。
「! どこから…」
視線を走らせ、周囲の様子を窺う。一気に緊張が高まる。
再び風が吹いた。菖蒲の香りも濃くなる。
悲鳴のような声が、途切れ途切れの言葉を結んだ。
――たち よ、われの… …!
「…待って、君は…!」
反射的に伸ばした手のひらは、何にも触れる事はない。指の間を、香りと悲鳴の風がどうしようもなくすり抜けていく。
せっかく声が聞こえたと思ったのに、こんな――。